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作家・佐藤優さんへ

2011/05/05 21:28

 

在沖縄海兵隊移転規模を水増し ウィキリークスが米公電公表

をうけて佐藤優さんは、日本の政治家と日米の官僚は国民に真実を隠してきた、と言われる一方、どんなことであれ東京都知事や北海道知事、沖縄以外の知事や県民にうそをつけるだろうか。沖縄の知事は植民地並みの扱いを受けている。

と沖縄以外の知事県民に嘘は吐かないが沖縄知事には嘘を吐いているとしている。

 

沖縄は植民地並を扱いを受けてきたと正当性を主張されるのであろうがそれと比べたら福島原発事故と事故処理で東電と政府は福島県民にそして日本国民にした原発は安全だとのアピールは全く嘘でしかもそれを安全院と東電自身もそれは嘘であると知っていた可能性が大きく出ている。

 

日本政府は国民に長い間原発の安全性について真実を隠しその結果チェルノブイルに次ぐ実害を出したが沖縄の基地問題における実害とは何であろうか?

政治家の嘘は昨日今日始まった事ではない、と言って容認する積りはないがそれを理由に「植民地扱い」とは現代の実態からは些かかけ離れているように思える。

 

私の独断になるが「植民地扱い」・「差別」を基地移転問題を煽るフィュールにする意図に見えるのはグアムに移転する米軍の人数を水増しとは人数の問題ではなく結局は金の多寡の問題である様に思えるからだ。

 

メア氏が沖縄の人は「日本政府に対するごまかしとゆすりの名人」

 

と言ったのを問題にする佐藤優さんだがこの言葉は沖縄県民ではなく佐藤優さんにぴったり当てはまりそうな気がする。

 

> 全て排除すると沖縄の味方が少なくなる

朝日新聞以外の全国メディアも

 

とわざわざ書く沖縄タイムスの論調にも「ごまかし」の感が湧く。

 

 

 外務省主任分析官で作家の佐藤優さんは「外交の世界の機密は無制限ではない。国民への説明と実態がかけ離れていること自体、民主主義の国ではあり得ない」と指摘。国民に真実を隠してきた日本の政治家や日米の官僚を批判した。

 同時に「グアムに移転する米軍の人数を水増ししたことは『ばれても大した事はない』と無意識に沖縄の人たちをばかにし、差別している」と指摘。国民が沖縄の基地問題に無関心な上、政治家や官僚が同問題を「構造的な差別の中に置いている」ため、問題解決が遅れているとみる。

 「どんなことであれ東京都知事や北海道知事、沖縄以外の知事や県民にうそをつけるだろうか。沖縄の知事は植民地並みの扱いを受けている。沖縄はめげることなく、堂々と抵抗する正当性がある」とした。

 米外交公電は日本の政治家や官僚が、普天間移設問題でうそや言葉を使い分けていることも示した。佐藤さんは、メア元国務省日本部長など日米の官僚発言を検証する必要性も強調し「発言の責任を糾弾しないといけない。だが、『ノーコメント』の人とうそをついた人を区別した方がよい。全て排除すると沖縄の味方が少なくなる」と話した。佐藤さんは「公電は、普天間の県外移設に抵抗する外務・防衛官僚を取り上げた沖縄地元紙の報道の正しさを裏付けている。朝日新聞以外の全国メディアも内容をきちんと伝えてほしい」と期待した。(知念清張)

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-05-05_17428/

 

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2011/05/06 09:26

Commented by 広転 さん

tomtomさんこんにちは

私のブログの副題が「嘘と真実」なので、気になりました。

嘘と真実の間には「誤魔化し」とか「方便」とかがあるのでしょう。

暴露サイトのウィキリークスもこの嘘が真実の顔をしているのを暴くことで初めて真実ではなかったことを我々に教えたわけです。

もともと嘘は嘘や方便の顔をして出ては来ない。巨大な真実の姿を装って我々の前に立ちはだかっている。これが問題だと考えます。

それから誤魔化しとは「文字」で誤魔化すわけです。誤魔化すために文字を違(たが)えて使うということがあるわけです。これは誤魔化しの常套手段ですが、すり替え、読み替え、書き換えを「文字」を使って巧妙にやる。かなりうまいのでよほど注意していても騙されてしまう場合がおおい。

それで、ウィキリークスのような暴露が出されて、初めて真実が明るみになる。これは太陽が出ない間は闇の中では玉の傷は見えにくい場合が多いということです。

誤魔化す者は無知というか闇を対象にして行われる場合が多いということだと思います。つけくわえますと、闇とか無知とかは人為的にも造作できるものでしばしば行われているものです。

 
 

2011/05/06 12:01

Commented by Tom さん

それで公転さんは佐藤優さんと知念清張さんの文をどう思われますか?

 
 

2011/05/06 22:14

Commented by 広転 さん

tomtomさん

難しい問題ですが、やれないこともないですね。

私はこの2人の方を全然知らないのです。佐藤優という名前はどこかで見たことはあるのですが、読んだことはありません。知念清張氏なる人物は初耳でした。

一応、嘘と真実の見分け方を私の考えで提示しました。もし私が嘘か真実かを見分けることをつまり調査をするとしたら、時間がかかりますが、まずその人の代表的な問題作をいくつか読みます。


ゆっくりやります。佐藤優と知念清張は何をまず読んだらよいのかtomtomさんのご意見でよいのですが、私に教えてください。

まずはその辺から取り掛かりたいと思います。

ゆっくりやりますので、時間のあったときにでも教えてくださればと思います。

嘘なのか真実なのか、明らかにすることは大事なことなのですから。

そのあとは、また時間がかかりますがこの両人に会ってみたいと考えています。










 
 

2011/05/06 23:03

Commented by Tom さん

いや、そんなことではないのです。
この沖縄タイムスの知念と言う記者が紹介している佐藤氏の文とその後にある知念さんの文を読まれた感想をお聞きしたいです。

 
 

2011/05/07 13:44

Commented by 広転 さん

tomtomさん

前にお話しましたとおり、この2人の方を私は知りません。文章も初めて拝見する機会となりました。

tomtomさんの記事にリンクされている分もふくめ、次ぎの3つの文章を拝見しました。その限りでの私の感想ということにします。

①共同通信の2011/05/05「ワシントン共同」在沖縄海兵隊移転規模を水増し

②THEWALLESTREETJAURNALの2011/04/14【ビデオ】沖縄発言は誤解=米国務省元日本部長が反論

③沖縄タイムス 2011/05/05 佐藤優さん「沖縄を差別・堂々と抵抗を」


感想を一言でいえば、知念氏の文章では「米外交公電は・・・」ここの文章の主語が不明ですね?米外交公電ともとれるが、佐藤氏ともとれる。佐藤氏ととった場合には「米外交公電は・・・」の文章は目的格になるわけで、意味が全然変わってしまう。いままで一度も文章に出てこなかった米外交公電「告発サイトのウィキリークス」がここで突然に登場するわけで、その(米外交公電)の説明があるわけではない。不思議な文章ですね。

(つづきます)

 
 

2011/05/07 13:45

Commented by 広転 さん

もしここの箇所の文章の主語が米外交公電であるのならば、つぎのような意味を含む文章となるはずだ。つまり、在米日本大使は米国国務省への公電の中で「日本の政治家や官僚が、普天間移設問題でうそや言葉を使い分けていることも示した」となるだろう。

しかしこの文章の前の箇所においては、知念氏は米外交公電に関する話しを一度も出ていない。このことから「米外交公電は・・・」の文章の話してはつまり主語は佐藤氏ではないかと想像されるのである。そういう書き方をしている。

少し細かいが続けると、「うそや言葉を使い分けていること「も」示した」と知念氏が書いていることでもこの箇所の文章の主語は実際には書かれてないが佐藤氏なのではないかと推測される。しかしそれは正しいのか?という問題が残ってくるわけだ。

(つづきます)

 
 

2011/05/07 13:49

Commented by 広転 さん

②THEWALLESTREETJAURNALの2011/04/14【ビデオ】沖縄発言は誤解=米国務省元日本部長が反論

このビデオは面白かったです。ケビン・メア氏は日本語が全くへたくそですね。これでは学生に誤解されるでしょう。

メア氏の発言をそのまま、わかりにくい箇所も聞き取りしてみると以下のようになる。

「私が説明してたことは、その学生たちからの質問があって、そのほうじょうきん(補助金)たくさんもらっているし、経済にどういう影響があるかという質問に対して、私が説明したことは、はじめて沖縄にいったときに、あの、たくさんの地元のゴヤとか、野菜とかあると思ったけど、ほとんどの消耗ベースで栽培されたものはサトウキビ、サトウキビばかりというよりは、たくさんのほうじょうきん(補助金)もらっているから」

(つづきます)

 
 

2011/05/07 13:50

Commented by 広転 さん

(ここで小野由美子編集長が口を挟み、「補助金が多いからサトウキビが多い」と、メア氏の話しとは別な理解でまとめて発言したと思われる」)

メア氏は話しを続け、「みなそういうふうにして、どのくらいほうじょうきん(補助金)にたよっているかというと、地元のゆうめいの野菜ゴヤたくさんは、宮崎県から輸入する必要があるくらいほうじょうきん(補助金)をもらっているとそういう説明して、そのぐらいほうじょうきん(補助金)が経済に影響があると説明した。でも、前にも申し上げたように、なぜ学生たちが、メモをつくった時に、私、そういう私の発言を歪曲したかよくわからないのですけれど、たしかに、あの、その・・・」

このくらい何度もほうじょうきん(補助金)、ほうじょうきん(補助金)と話せば誤解も生むのでしょう。本当はそれが本音であって学生の理解して指摘したのは誤解ではなかったのかもしれない。

(つづく)

 
 

2011/05/07 13:50

Commented by 広転 さん

①共同通信の2011/05/05「ワシントン共同」在沖縄海兵隊移転規模を水増し、の文章でも②や③の文章と共通した問題が指摘できると感じたわけです。

この共同通信の文章では「2008年12月に在日米大使館から国務省に宛てた公電によると」と一応は公電の意味が書かれあるが、この公電文の価値を余り高くは見てないようなのだ。だから管直人氏が「合法的でない情報の発表と理解している。政府としてはコメントすべきでない」と発言して、米国外交官の発言を「合法的でない情報の発表」という形式を理由にして一蹴する言葉に批判さえできないでいるわけだろう。

つまり文章の主題のすり替えやテーマ軸の移動を意識的にやっている疑いがあちこちのメディアにあると見られるのです。主語を意識的に隠したり、ぼやかしたりして文章の持ち主である主語をずらしたり変えたりして、読者に故意に別の主体が主語であるかのように取らせている。文章の発言の持ち主に「なりすました」「すり替えの意図がある文章」が作られているのではないかという疑問を感じました。

それは日本語の下手さ加減を逆手にとっている場合もあるし巧妙な文章作りによっている場合もあるようだ。目的はやはり何かを何かに「なりすませる」ためではないかと考えています。

(以上です)

 
 

2011/05/07 19:21

Commented by Tom さん

広転さん、
長文によるご説明、ありがとうございました。

 
 

2011/05/07 20:53

Commented by ana5 さん

>読者に故意に別の主体が主語であるかのように取らせている。文章の発言の持ち主に「なりすました」「すり替えの意図がある文章」が作られているのではないかという疑問を感じました。

これ良く分かります
私も使いますから、たまに?ね~

 
 

2011/05/07 22:02

Commented by Tom さん

独り言。

{ 日本語には主語・主格は誰かをはっきりさせない婉曲あるいは尊敬をつかっての目上の方の存在を匂わせるとの手法がありそれこそが主格は誰であるかを明確にさせる方便であった。

{ それは現代の日本語のように「曖昧である」をよい事として相手にはっきり自身の意図を伝えないのは生きた人間に愛情表現をする努力を怠り、目の前の写真又はビデオを見ながら精を出すのと同じ行為。

なぬ?
お前はしたことがナイのヶ?(転換のまま)

{ その質問の答えにはふにゃふにゃと日本語の曖昧さを用いる。

 
 

2011/05/08 00:18

Commented by 広転 さん

真実に対する突っ込みがない。したがらない。テレビ・新聞・ビデオという公場公開されるメディアの場合においても日本ではこの傾向が強いのでしょうか。

真実を求め白黒を明かすジャーナリズムは暴露的な存在にされてしまい勝ちです。

レポーターの態度も含め話したり書いたりする場合には日本的伝統ばかり意識すぎると、メア氏の場合のように曖昧性が日本の文化的風潮だと(誤って)認識されて、御自身も相手に適合的な話し方をよしとすることになる。これは外交官としては、はたして良いものか。

日本語は曖昧なようですが、言外にも意味をきちんと保存させているところがあるわけです。しかし、それを伝えるのはなかなな難しいし誤解も生まれる。

外交次元や新聞言語では主語や述語が明解な中国語や欧米の言語感覚でコミュニケーションを採ったり書いたりしたほうが誤解が少ないということでしょうか。

内部告発サイトであるウィキリークスのような暴露記事が日本的な精神風土のジャーナリズムではどう理解されているのでしょうか?

tomtomさん、米国の場合はどうなんでしょう?

 
 

2011/05/08 00:27

Commented by 広転 さん

書き忘れました。

米国(英語)の文章作法で、あるいは書き手個人の意図からでもよいのですが、文の主格を隠したり曖昧にしておいて、読者が誤って取ることを予期して書く文章といったものは存在するのでしょうか。これを私は「なりすまし文」とか「すり替えの意図がある文章」といっているのですが。

 
 

2011/05/08 02:26

Commented by Tom さん

公転さん、

私の独り言はその上にアナゴさん向けのものなんです。
この人はいつも短い分けのわからないコメントをいくつも残すとの悪い癖が過去にありました。
それにいちいち答えるのも癪ですから独り言として嫌味を書いたのでした。

何れにしろ読んで気分の良くなる文ではありませんからご機嫌を損ねるような事がございましたらお詫びいたします。

 
 

2011/05/08 02:55

Commented by Tom さん

To 広転さん
>書き忘れました。
>
>米国(英語)の文章作法で、あるいは書き手個人の意図からでもよいのですが、文の主格を隠したり曖昧にしておいて、読者が誤って取ることを予期して書く文章といったものは存在するのでしょうか。これを私は「なりすまし文」とか「すり替えの意図がある文章」といっているのですが。

英語では宗教家と言われる人が良くしています。
例えば、聖書には「お金が欲しいと思ったら手にはいると書かれてある」と言う人がいます。
所謂TVエバンジェリストと呼ばれる金儲け目当てのような人たちが言う事なのですが聖書の一部を取ってそれだけを言うと逆説の言葉がまるでイエス=キリストがそれを意図しているとの錯覚をある種の人には覚えさせるのでしょう。

日本でこれに当たるのは獄中からメールマガで儲けようとしているホリエモンとか言う人や産経の古森氏が書かれる文でこれらは人心をたぶらかすものと思います。

例を挙げますと、2008年の大統領選で古森氏の文を読みあるブロガーはマケインが大統領に当選すると思ったらしく古森氏もそう書かれていると古森氏のブログにコメントを残された方がいました。多分今でも残っている筈です。
古森氏は決してそのような事は一度も書いていないとそれに応えられています。
古森氏はマケインを褒め、オバマを叩く事で共和党保守派への追随記事を書いていたのですがそれがよく「読めない人は誤まって取る」との結果を生むとこのブロガーさんは如実に表してくれたいい例と思います。

 
 

2011/05/08 03:04

Commented by Tom さん

>tomtomさん、米国の場合はどうなんでしょう?

ウイキリークスについては良く調べてないのですが、賛否両論があるようです。
恐らく保守的な方々には国家の安全との見地から反対が多く「知る権利」を主張するリベラルより少し多いのではと思います。

 
 

2011/05/08 11:07

Commented by ana5 さん

To 広転さん

>私の独り言はその上にアナゴさん向けのものなんです。

結構、誰かさんは私の事好きなんですよ
返事書いて頂けますから

 
 

2011/05/08 11:10

Commented by ana5 さん

ホリエモンとか言う人や産経の古森氏が書かれる文でこれらは人心をたぶらかすものと思います。

同意いたします

 
 

2011/05/10 23:07

Commented by 広転 さん

tomtomさん

書き手はしばしば読み手の読解のコンテクストを意図して書くということがあるということでしょうか。読み手の誤解するような文章を周到に練り上げて書くのですね。だから一応は書き手に嘘はないし客観的には読者の勝手にした誤解ということになる。読み手の責任だということになる。

しかしながら書き手の責任は逃れることができないものだと私は思うのです。そのような作文(策文)をしたことを知っている書き手がその罪で苦しむわけです。そこに読者を導いたという責任の意識があればですが。

誠実な文章の書き手ならば、そういう読者の誤解を危惧して、きっと後には、死ぬ前までには、自分の書いた文章に反省的悔悟の指摘があり「悔い返す筆」が残されるのだと思うのです。それを遺書とか遺書とかテスタモンとかいうのだと私は思うのです。(つづく)







 
 

2011/05/10 23:09

Commented by 広転 さん

読み手の誤解は、読み手がtomtomさんのいうところの「たぶらかし」(騙)に気づいた時には怨念を買うことになるので、それを悔い返す後悔の文章(テスタモン)というものを必ず残す筈なのです。

私はこういう観点からキリスト教の聖書には前言の虚言(方便)を悔い改め後悔するという、つまり前言を否定するキリストの遺文があるのだと、見ています。

ところがこのキリスト自身によって否定された前言も、読者である信者の中にはすべてキリストが残した遺文なので、真実なのだと前言に執着する教派がいるのではないか?。

キリスト教に詳しいtomtomさんにこの最後の2点について、ご意見をお聞きしたいと思っています。古森さんの文も問題でしょうが、こっちのほうとの関係もありそうなので。時間の許す範囲でいつでも結構ですのでよろしくお願いします。

 
 

2011/05/11 02:26

Commented by Tom さん

>私はこういう観点からキリスト教の聖書には前言の虚言(方便)を悔い改め後悔するという、つまり前言を否定するキリストの遺文があるのだと、見ています

聖書の言葉はメタフォーであるとお考えになったほうが分かりやすいと思います。
例えば「汝の敵を愛せよ、何故なら神はそうしているから。」とだけ書けばそんな神なら信じたくない、と思われるかもしれません。マタイ5:43参照
結論を出す前に「味方だけを愛するのはあなた方の敵でもしているではないか。それならあなたも敵も大差はない。」と言って敵と同じにされるのは心外だと思わせて置いて、「神は人間誰をも愛しているからあなた方も神のようになりなさい。」と言う順序を踏んでいますね。

汝の敵を愛せよ、はメタフォーで実際自分の敵を愛せる人は居ません。 
神が人間を不完全な者,罪深い者として罪なる肉体を与えたと聖書にあります。
ですから、

マタイ5:48それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

これも嘘だと判りますね。
又はどのようにしたら神のように完全な者に成れるのかと考える人も米国には沢山います。
神の力を借りれば不可能な事はない、特に聖書がそう言ってるから間違いはなかろうと考える人も居るようです。

それを神の子になる力と考えているのでしょうが実際に神がそんな力を下さると考えるならば私にはおめでたい事だと思います。
それならお祈りをすれば何でも叶ってしまうと言うのと同じ事ではないでしょうか?
極言すると人間が完全に成ったら永久に生きる事も可能だと考えるのでしょうか?

マタイ17:20に山を動かす信仰とがあります。
しかし信仰があれば何でもできると思うのは間違いだと思います。

ルカ17:5使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。 17:6そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。


 
 

2011/05/11 03:05

Commented by Tom さん

からし種は当時のヘブライ人には最小の単位の例えとして使われたそうです。
「からし種一粒穂の信仰があるなら」とはイエスは暗に使徒たちには信仰がないと言ってるのに等しいのではないでしょう?
少しでも信仰があれば神のような奇跡を起こすことが出来る、との意味は信仰とは在るか無いかのどちらかに別れ、どれだけあれば神から認められると言う事ではないと私は考えます。

ヨハネ15:16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである・・・

これで神への信仰は量ではなく質であると分かります。
イエスは赤ん坊が母を求めるような信仰を純粋な信仰とするらしく天国に最初に入るの赤子だとしています。(私の記憶によりますと)
この意味は人間は智恵の実を食べて罪なる肉体が与えられたのですが赤ん坊は未だ肉体が成長していませんのでその罪もまだ育っていないからだ、と私の勝手な解釈です。

ではどのような成人を神は選ぶのか?
神ならぬ我が身には想像しか出来ませんが、内なる罪の存在に慄きたとえ悪事を働いたとしても神を信じ我が身が起こした罪悪を悔いて我が身と我が心を穢れのないものにしてくださいと心より祈る人を神は選ぶのではないかと思います。

ですから、聖書研究をし聖書の意味を隅から墨まで知っていたとしても上記の罪の意識が無ければ神の子となれるかどうかはっきりとそれは疑問であると私は思います。

真実と嘘をどのように使うかは夫々の心の問題ですね。
古森氏の論はいつも共和党が正しく民主党は間違っているとの論調です。
米国はほぼ真二つに共和党と民主党に意見が分かれます。
いつも共和党員は正しく民主党員は間違っているのでしょうか?
そんな筈はないだろうと私は不思議に思います。

しかし、最近でも古森氏のブログは人気が一見高くなって来ているようです。
イザ!内外で古森教の信奉者と古森氏のブログの追従者を呼ぶのが見られます。

同じ宗教者?のような言葉ですが結局は、真実は見る目の中に宿ると言う事になるでしょうね。

 
 

2011/05/11 09:19

Commented by 広転 さん

米国の政治もキリスト教の二元論的な扱いで善悪を論じているというのは面白い見方ですね。tomtomさんの別のブログ記事の箇所に⑩番目のコメントとして書かさせていただきましたが、その続きを書きます。

⑨「パウロの神学」なるものですが、これは、「古森氏の論はいつも共和党が正しく民主党は間違っているとの論調です」と同じく二元論の思考です。

tomtomさんは「ですから、聖書研究をし聖書の意味を隅から墨まで知っていたとしても上記の罪の意識が無ければ神の子となれるかどうかはっきりとそれは疑問であると私は思います。」といっています。

パウロ神学ではどうしても人間側が悪くならないとその神学は成立しないのではないでしょうか?つまり人間の罪(原罪)を認めないとだめだということで、その裏返しが完全な神、善なる神を成立させ承認するという前提を受け入れるという条件が必要なわけです。これは手品の世界で全く理解の行かない詐欺師の話しだと思います。古森教というのもこれと同じであるならば全く正しいとはいえないでしょう。キリスト教にはそういうまやかしがあるようです。その原因は神を善とたて人間を蔑視して悪とたてる隔離思想があるからでしょう。

 
 

2011/05/11 09:49

Commented by 広転 さん

隔離思想といいましたが、それは一種の人間と神とを分離させる非人間化の思想のことです。神を人間の上位に立てるわけです。しかも人間は神に近づくずくことはできても絶対に神にはなれない誤った二元論の思想です。つまりキリスト教とは一種の脱ヒューマンな教えなわけです。そこに糞や小便の中にまみれたキリストの絵を見つけることが困難になっている。

先日、南仏にある美術館で現代絵画が判らない左翼思想かキリスト教教条主義者かはしらないが、小便の中にうずもれているキリストというテーマの絵画に傷がつけられる事件がありました。

丁度パリのルーブル美術館ではレンブラントの展示会を開催してまして、レンブラントはその時代では全く先駆的な仕事として、キリストを荘厳な神としてではなくて不通の一般の男性として描いたためにスキャンダルになった。南仏での「小便のキリスト絵画」に抗議したテロ事件はそれと同じスキャンダルな事件でした。神と人間との乖離なり分離思想に挑戦した芸術家の闘いを嫌って神への冒涜だと見たわけでしょう。

そこには神が悪であり人間も悪であり、かつ神が善であり人間が善である、という思想が欠落しているわけです。

芸術家たちの挑戦においても単に人間と神の相似性なり近似性を指摘するだけでは両者の溝は埋められません。それらが同じであると明解に描く絵はまだ出てないようです。これを描けば大芸術になるのですね。そして人間を呪縛しているパウロの神学が否定されるのです。


 
 

2011/05/11 11:39

Commented by Tom さん

申し訳ないですが私には難しい事は分かりません。
私のキリスト教観は付け刃ではないと自分で思っています。
米国の新渡戸稲造を知り始めてから35年経ち聖書の知識をある程度持っていると日本人の牧師から言われたのが1982年頃です。
その頃は米国のクリスチャンが経験する聖霊との触れ合いである至上の喜びのジョイ(Joy)を体験し、所謂スピーキングタングと言われる聖霊の力による異言語の理解も体験しました。
その体験はあまりにも生々しく現実に起きたとしか思えないのですが客観的に考えますと先入観による自己暗示と考えたほうが説明が付くのです。

そうした体験の否定の上に立った神の存在の否定の下に聖書を読み直しますと聖書の比喩が既存のキリスト教とは違ったイメージが湧いてきます。
そのイメージに立てばカトリックと仏教の聖人思想や奇跡を神・仏の仕業とする考えに何処に違いがあるのか分かりません。
今昔物語本朝編を読みますとカトリックのお話と全く同じものを読んでいる感じがします。

仏教やカトリックのお説教は神の真理を凡人に分かりやすく教えて下さる天才の方々のお話を思い出させます。
そのお話を信じたのであれば神仏の言葉を信じたことには成らず頭が素晴らしく良い人間の言葉を信じることに成ります。

私は人間の言葉を信じる為に経典を読むのではありません。
神の御心、仏性成る仏の言葉に触れるために経典を読もうと思うのです。
仏教典は漢語あるいはサンスクリット語か何かで書かれているらしく簡単な日本語の訳本が手に入ることは私がそれを求めていた頃は難しかった。
それに日本の仏教はお釈迦様から始まったらしく親鸞様のお説教でも我々が何処から来たのかとの説明はなされていなかったと思います。

私が思ったのはこれは答えることが出来なければ宗教として一番大事なものが欠けている、でした。
それが理由で聖書の言葉を信じることに成ったのですが仏教に天地創造があったなら私には仏教で充分だったのです。

 
 

2011/05/11 11:40

Commented by Tom さん

宗教とは何を信じるかに関わってくるものですが自身の疑問に答えてくれない宗教は信じるに値するでしょうか?
仏教典を読めて理解できてそれだけで仏性が分かった事になるのでしょうか?
聖書を読んで理解できてそれだけで神の御心が分かった事になるのでしょうか?

私の熊本の母の実家は浄土真宗宗徒でした。
他力本願の教えです。
仏の慈悲にすがる事で救われると教える宗教です。
聖書では神と神の愛を信じることが救われる条件です。

どちらも仏教典の理解や神学の理解が大事なのではありません。
それらは天才がする仕事で我々凡才には関係のない所で神仏に繋がっているに相違ないと思うのです。

 
 

2011/05/14 13:26

Commented by 広転 さん

tomtomさん

tomtomさんの思想の遍歴というか人生の思索の経過が良く示されていると思います。キリスト教と浄土真宗との相似性に思い気づいて行かれるということなのでしょうか。

tomtomさんの書かれたどこを読んでも私はうなってしまいます。納得いくことが書いてある。全部引用したいのですが。次ぎに引用しました箇所が私には良く理解できた次第です。


>そうした体験の否定の上に立った神の存在の否定の下に聖書を読み直しますと聖書の比喩が既存のキリスト教とは違ったイメージが湧いてきます。
そのイメージに立てばカトリックと仏教の聖人思想や奇跡を神・仏の仕業とする考えに何処に違いがあるのか分かりません。
今昔物語本朝編を読みますとカトリックのお話と全く同じものを読んでいる感じがします。

仏教やカトリックのお説教は神の真理を凡人に分かりやすく教えて下さる天才の方々のお話を思い出させます。
そのお話を信じたのであれば神仏の言葉を信じたことには成らず頭が素晴らしく良い人間の言葉を信じることに成ります。

私は人間の言葉を信じる為に経典を読むのではありません。
神の御心、仏性成る仏の言葉に触れるために経典を読もうと思うのです。
仏教典は漢語あるいはサンスクリット語か何かで書かれているらしく簡単な日本語の訳本が手に入ることは私がそれを求めていた頃は難しかった。
それに日本の仏教はお釈迦様から始まったらしく親鸞様のお説教でも我々が何処から来たのかとの説明はなされていなかったと思います。

私が思ったのはこれは答えることが出来なければ宗教として一番大事なものが欠けている、でした。
それが理由で聖書の言葉を信じることに成ったのですが仏教に天地創造があったなら私には仏教で充分だったのです。


 
 

2011/05/14 13:35

Commented by 広転 さん

次ぎの箇所も私にはtomtomさんの考えを解くのには大事な箇所だと考えますので次に引用させていただきます。

>どちらも仏教典の理解や神学の理解が大事なのではありません。
それらは天才がする仕事で我々凡才には関係のない所で神仏に繋がっているに相違ないと思うのです。


 
 

2011/05/14 18:37

Commented by Tom さん

公転さん、
コメント、誠に感謝いたします。
このように具体的に何を私が考えているか示してくださると助かります。
私が今まで書いたのはその時の「私の思い」をそのままに、でした。

しかし、聖書に関する「私の思い」とは全て聖書の言葉が下敷きにあると思います。
人には夫々に違った経験がありますから同じ聖書を読んだ後の印象は夫々に違ったとしても可笑しくはない。
宗教は一つの神仏について、なぜそれを信じるのかと教義が書かれた経典がありその理は言語やそれを理解する背景などの教養がなければ読んでも何を言っているのか分りませんね。
本当に仏様とは何かを私が知ろうとした時に簡単に仏性について書かれてある権威のある本はなく、又はそれを教えてくれる人(坊さんあるいは住職さん)が居ませんでした。

未だに覚えているのは、あるお坊さんに「日本の仏教はお釈迦様が起源になっているように思えるがおしゃか様の前に仏様がいたのか、いたらどんな名前の仏様か教えて下さい。」とメールで訊いたら、「お前は心持が悪い。そんな者に教えるわけにはいかん。」との答えでした。多分そのお坊さんにも簡単には説明ができなかったのでしょう。
あるいは日本人は何か自分が知らないことをとても大事にしたがる、との考えが全ての精神構造に組み込まれているのかもしれません。
ここでその説明を試みたのですが上手く書けませんでしたので割愛しました。
簡単に言えば、政治家の言葉は相手がバカだからこんなことを言っても有難がるだろうと思っている節がある、です。
左翼右翼系の文化人・新聞記者産たちにも同じことが言えそうです。

いつもの癖で話が変な方向に行きました。
凡才の為の宗教に戻りますが、浄土真宗の親鸞さんは妻帯をし子供まで行った先々で作っていたようです。当時の出家にしてはトンでもないことをしているのですが戒律僧の生き方は彼には出来ないと言ってそれでも仏を信じて仏にすがれば許してくれると他力本願(仏の力で成就出来る)を唱えたのですね。
自分の力で仏様に成れると説く仏教は修行僧のように並外れた体力と知力を必要とし、大方の煩悩が多い凡才の我々にはとても適わない宗教に思えました。

 
 

2011/05/14 18:39

Commented by Tom さん

キリスト教(ああ、何といやな響きなのか。^^;)も他力本願ですね。
どんなに聖書の言葉と意味を覚え知ったとしてもそしてそれを他の人に話しキリスト教を広めたとしてもそれは神の目には何の役にも立たないかもしれないと思わさせる言葉が聖書にあります。

マタイ7:21わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。
また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

 
 

2011/05/14 20:43

Commented by Tom さん

>キリスト教(ああ、何といやな響きなのか。^^;)

これは我ながら誤解を生む恐れがある言葉と思いました。
キリスト教はむろん宗教でイエス=キリストの言葉をこう信じなさいと凡才に教えてくれるものだと思われます。天才が教える側にあるのかもしれません。
又、カトリックやプロテスタントはその歴史で大きな間違いを犯してきました。
宗教はこのような人的な過ちを含みますがそれは聖書の教えの罪ではなくそれをどう教えたかその教えをどう理解したかが大きな過ちを生んだと私は考えます。
ですからそのイメージを「キリスト教との言葉」に私は持つのです。

宗教と信心は手に手をとるような言葉ですが「私は信心を持つが宗教心は持たない。」との言い方があります。
これは、イエスを神として信じるが多くあるキリスト教の宗派の一つに凝り固まってはいないとか、仏を信じるが特定の教派を信じてはいない、となるのでしょう。

信心は大事ですが、例えば創価学会の教えを信じない人には創価学会会員は仏様を拝んでいるのかそれとも池田大作を拝んでいるか分らないと見えるように人を信心の対象にしたら大きな間違いを生むのではないでしょうか?
これは私が尊敬して止まない親鸞さんでも親鸞さんが師と仰ぐ法然上人でも同じ事で人間は信仰の対象にはなりませんね。
人間には人間の限界があり有限な人間を信仰してもその信仰に有限が生じるからだと思います。

 
 

2011/05/14 20:44

Commented by Tom さん

聖書の主旨をまとめますと、「神は人間を愛ゆえに創った。神は、神の愛を実践(=神を愛し人間を愛する事)をする者を義(神の目に正しい事)とされ実践するかどうかは個人の選択の自由とされた。神の愛を選んだ者は肉体の罪から開放され、神の愛を選ばない者は悪に支配され永遠に罰せられる。」
これに近いものではなかろうかと思います。

神の愛とは何か?
神の御心とも言えるものだと思います。
それを知る為に私は聖書を読むのですが誰しも心の中には欲望がありこれがいつも神の御心を知る妨げと成ります。
聖霊の存在を感じてから30年近くに成り福音書を繰り返し読むようになってから20年ほどに成りますが神の目には少しも進歩のない私を神はじっと見守っていて下さるとだけははっきり言えます。
神の愛は人間が持つ善なるもの全てでそれは又神から与えられたものの印だと思えます。
何時の日か自然に善行を考える事無しに私にも出来る日が来る事を祈りつつ聖書を読んでおります。

 
 

2011/05/14 23:30

Commented by 広転 さん

大変に重大な我々の課題が示されている文章なのだと拝します。

キリスト教徒だけの課題ではない問題指摘が各所に書かれていて私としては何か一つのお大きな筋でまとめて話せるのではないかと思っています。それは人間の救済ということかもしれないがひどく興味がそそれるものでした。

tomtomさんのおはなしを基礎にして、私のこれまでの宗教理解に何かを付けてお話しできるかもしれないと少しもったいぶった言い方で失礼ですが考えています。でも次にコメントさせていただく時は一言で余り長くならないようにまとめていってみたい。

 
 

2011/05/16 07:09

Commented by 広転 さん

キリスト教がヨーロッパの地中海の東の方からフランスに伝わって、それがガリア地方の土俗信仰と融合して3世紀頃までに広がる。ローマの侵入でキリスト教徒に迫害された古代の神々は地下の文化世界に姿を変えたり或いは消滅してゆくが、2~3世紀ごろのサント・カトリーヌは若い女性の守護神であり売春婦の守護神でもあったりしている。6世紀以降たとえば鍛冶屋職の聖人はサン・エロワ(éloi)であり、4世紀ツールの司教サン・マルタンは軍人や火消しの守護神だったと記憶する。サン・ミッシェルは天上界への裁きと天秤や武器と結びつくあらゆる職業者の守り神であった。ノルマンディーの方にはサン・シメオンだったかライ病人の祈り神だというのがある。アルザスにはサント・オディールという目の悪い人の聖人がいる。
(つづく)

 
 

2011/05/16 07:12

Commented by 広転 さん


聖人信仰がフランスで発達して職業別の守り神を作り出す。個別に救済する社会組織を織り成すことで彼等は直接には神には祈ることをしなくなっていったたように思われる。しかし一番重要なこと、つまりキリスト教が万民の根本的な苦悩に手を差し延べられななかったということが隠されてしまっているということである。目前の個別の悩みは確かに苦悩ではあるが、それが起こってきた原因には目隠しをしてしまっている。

12世ごろにパリの北部近郊のサンリスの町のカテドラルのタンパン(まぐさ部)に世界で初めてマリア像がキリストと並んで対座した彫刻が描かれている。ロマネスクの神の絶大性がこの時代では消えていて、神という絶対神がマリアと平等の位置に描かれたわけである。

マリアは船で今の南仏のサント・マリー・ド・ラ・メールという所に地中海の東のほうから漂着した。

わたしはこのよなキリスト教の布教の形がつまり、兵士や売春婦、鍛冶屋や商人、ライ病患者や目を患った人といったように救済の対象者をそれぞれ限定化して区分しているのは、一つは信者を統合し信仰心を高めるためだったのだと考えています。それは今でもピレネー地方のルルドに行くとわかりますがハンディキャップの人々が奇跡の聖人ベルナデェットを頼って集まってきている。キリスト教はこのような布教法をとったのです。

(つづく)


 
 

2011/05/16 07:13

Commented by 広転 さん

つぎに何故このような布教や救済の型が生まれたかですが、キリスト教の救済力がなんでもかんでもというふうに全人類を平等には救えないという力の欠乏があったからだと考えます。ようするに特定の集団を対象にして頭のわるい人とか、病人とか、金で困っている人とか、特殊化して対象ごとの要求に応えて行こうとした。つまり病気の人には薬の話し、金の儲かる話しでは誰も耳を傾けないわけですから、どうしたら病気が治るのかという薬や治療の話しをするわけです。

こういう相手の実情や意識に対応させた形で布教していく法(教え)を随他意(ずいたい)の法(宗教)といっているのです。この随他意はどんなに素晴らしい比喩を使い方便をもって譬え豊かな教えであってもしょせんが相手に合わせて法(教え)を説いているために、相手の心を出ないのです。そういう限界がある。

つまり慰めの宗教であり、癒しの教えでしかないということになる。その人の苦しみ悩みの根源がどこにあるかを問わないで表層の現象の解決を計ろうとしているので、治ってもまた同様な苦悩なり病気は起こってきてしまってそれが無限に治まらないのです。たしかに病気の患者は病気が治ることを求めます。が、その原因がなんであるのかは追究しないからです。
(つづく)

 
 

2011/05/16 07:14

Commented by 広転 さん

そういう教えを仏教では小乗教とか爾前迹門(にぜんしゃくもん)の低い教えだといっているのです。難しそうですが、具体的には創価学会などでは池田大作という大先生を通してでないと仏教の本質はわからないので、漢文で書かれてある日蓮の「立正安国論」などよんでも我々の頭では難しすぎて理解できない誤読してしまうというわけです。そんな難行苦行をしてないで、難解な漢文の「立正安国論」や経典を読みこなし真理を体得した大先生(親鸞とかetc...)の解説本を読んで容易に理解してから、難しい経典なり漢文の「立正安国論」を読めば簡単に理解できる。そういうふうに立て変えて信者に教えるわけです。

凡人のあなたたちには難しすぎると立てて直接に経典に取り組むことを遠ざけさせてきたのが今の創価学会なわけです。そういうところはキリスト教もよく似ているし、tomtomさんの指摘された浄土真宗なども良く似ているわけです。

問題は果たしてそのような、教祖や聖人(せいじん)や大先生の教えに従って本当にキリストの教えなり釈尊の教えが理解できるのかとうことです。

ひょっとしてその大先生なりが信徒を囲ってしまっているのではないか?教えの根本とは別のものに代行されたものを口に入れられているのではないかとう疑問が強くなる。創価学会の大先生の例をみると日蓮の教えそのものではない大先生自身の解説書を立派な箱に入れて会員に売りつけていて、創価学会の家には実に沢山の池田大作先生の著作で氾濫しているわけです。こういう池田大作先生の教えが日蓮大聖人の仏教だと誤解している人は多いのです。同じことがつまり福音信仰や念仏経典(解説書)にも言えるのだと思うのです。

 
 

2011/05/16 12:53

Commented by Tom さん

公転さん、
フランスの聖人信仰のお話ありがとうございました。
フランス人って中国人に似ていると思っていましたが彼らの職業別の聖人信仰は中国の大家族別の先祖崇拝の信仰によく似ていると思いました。
要するに守護神的な現世利益信仰でこの世で益になる宗教信仰は利益を目的としたカルト的な新興宗教とたいしたかわりが無い物に思えます。
何を求めるのか、との個人の考えに迎合し先回りし投網にかける宗教は大概金儲けを主にしたものでなければこの世での名声を期待しているのかもしれません。

>こういう池田大作先生の教えが日蓮大聖人の仏教だと誤解している人は多いのです。
同じことがつまり福音信仰や念仏経典(解説書)にも言えるのだと思うのです。

創価学会もカトリックもプロテスタントも先人の解釈をそのまま信仰であるとするのは誤解であり間違いであるとのご指摘であれば私も同意致します。

恐らく、ギリシャ語で書かれた新約聖書を、原文のままに英語に訳され(King James Version)それを色んな英文のバージョンに訳された聖書を読める人々は幸せだと思います。
仏経典をやさしい日本語で読め小学生でも理解できるとしたらどれほど素晴らしく将来その子達にどれだけ影響を与えることでしょうか。

日本人にとって仏経の素晴らしさは言う間でもないですが西洋人にとっての聖書ほどの価値があるどうか、私には疑問です。

 
 

2011/05/16 22:56

Commented by Tom さん

To 広転さん
>つぎに何故このような布教や救済の型が生まれたかですが、キリスト教の救済力がなんでもかんでもというふうに全人類を平等には救えないという力の欠乏があったからだと考えます。ようするに特定の集団を対象にして頭のわるい人とか、病人とか、金で困っている人とか、特殊化して対象ごとの要求に応えて行こうとした。つまり病気の人には薬の話し、金の儲かる話しでは誰も耳を傾けないわけですから、どうしたら病気が治るのかという薬や治療の話しをするわけです。
>
>こういう相手の実情や意識に対応させた形で布教していく法(教え)を随他意(ずいたい)の法(宗教)といっているのです。この随他意はどんなに素晴らしい比喩を使い方便をもって譬え豊かな教えであってもしょせんが相手に合わせて法(教え)を説いているために、相手の心を出ないのです。そういう限界がある。
>
>つまり慰めの宗教であり、癒しの教えでしかないということになる。その人の苦しみ悩みの根源がどこにあるかを問わないで表層の現象の解決を計ろうとしているので、治ってもまた同様な苦悩なり病気は起こってきてしまってそれが無限に治まらないのです。たしかに病気の患者は病気が治ることを求めます。が、その原因がなんであるのかは追究しないからです。
>(つづく)

随他意との言葉は初めて聞きましたが随意を「他」人のものに従うと考えるとカトリックは過去の世界への布教時代にそれをしたし、現在でも神道・仏教の習慣にキリスト教徒が関与するのを認めているらしい事で随他意の考えをしていると思われます。

カトリックであれプロテスタントであれ私に問題なのは、夫々の教会が(だと思うのですが)日本人の習慣に投網を掛けて許可する・許可しないとの認定をしていることです。

キリスト教では偶像崇拝の禁止をはっきりと打ち出しているのは旧約に多くみられますね。古代ユダヤ人は善悪の考えを彼我に捕らえていたのが、新約でも例えばイエスが悪霊を取り憑かれている人から追い出し、悪霊は豚に乗り移って崖下に落ちたとの話に伺えますし、これは映画「エクソシスト」でエクソシストの存在が今でもあると有名になりましたね。

 
 

2011/05/16 22:57

Commented by Tom さん

イエスの言葉は当時の人の心に染み込むような言い方(あるいはイエス死後に聖書を書いた人がそうした表現を好んだ。)をしたのだろうと思いますがイエスのメッセージは何かを重視せずにイエスが発したと思われる言葉のみにスポットライトを当てるとトンでもない考えが宗教の骨子になりかねない危険性があると思います。
この点カトリックも日本仏教もまったく同じ過ちを犯していると思います。
この過ちの原点は神仏の心なる真意を見ようとせずそれについて書かれた先人の考えを尊いとした事でその結果は明らかだと思います。
日本仏教はインド仏教とはまったく違ったもの、例えばお「盆」は日本的なもの、だそうですし、カトリックの聖人思想は仏教の死んだ者は全て仏様に成るとの思想と大いに関係が有りそうです。死んだ人が全て仏様になったのを見て真の仏様はどう思うのでしょうか?又、聖人は天国に人間を導いてくれると信じているカトリック教徒を見てイエス様はどう思われるのでしょうか?

 
 

2011/05/16 23:20

Commented by Tom さん

>ようするに特定の集団を対象にして頭のわるい人とか、病人とか、金で困っている人とか、特殊化して対象ごとの要求に応えて行こうとした。つまり病気の人には薬の話し、金の儲かる話しでは誰も耳を傾けないわけですから、どうしたら病気が治るのかという薬や治療の話しをするわけです。

これは現在の米国でも行われています。
tv番組「700クラブ」のパット・ロバートソンは牧師でもあり政治家でもあります。
彼の政治の話は実に面白く頭の悪い?私も引きつけれるのですが、牧師としては最低でしょう。
ウイキペディアの彼の話をここに引用・コピペします。

>2010年1月、テレビ番組でハイチ大地震を「ハイチ国民はフランスの支配から逃れるために悪魔と契約したのだ。そうしてフランスは追い出せたが、それ以来彼らは呪われているのだ」と発言

 
 

2011/05/16 23:47

Commented by Tom さん

>つぎに何故このような布教や救済の型が生まれたかですが、キリスト教の救済力がなんでもかんでもというふうに全人類を平等には救えないという力の欠乏があったからだと考えます。

正にその通りでしょう。
それは新約の創世記と呼ばれる「ヨハネによる福音書」第1章に書かれてあります。

1:9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。

まことの光は善と愛の象徴でその対極にあるのが悪と憎しみで闇にあると考えます。
世にきた。-幼子イエスの誕生です。

1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 1:11彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。

1:12しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 1:13それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

イエスを信じた者は神の子となる力を得るだけですからそれ以上の力を人間は神から与えられてはいないと聖書を私は読みます。
ましてやこの世はイエスを受け入れなかったとは世界中がイエスを受け入れる事はないと聖書ではっきりと言っていますね。

イエスは世界を救う-これはまったくの妄想です。クリスチャンでこれを信じている人は考えを変えるかクリスチャンの看板を下ろしても聖書に書かれてあるイエス様は怒らないでしょう。

 
 

2011/05/20 16:03

Commented by 広転 さん

tomtomさん

そういう見方で読まれると理解が開けるのだと私も思います。別な言い方をすれば特殊化された教えを(誤って、あるいは、故意に )一般化し普遍化することで問題が起こるのだと・・・。

それでtomtomさんが指摘された「随他意」(ずいたい)ですが、これには対極に「随自意」(ずいたい)というのがあって、一応次のような概念になっています。

「随自意」とうのは自分の考えに随っていうということで、相手に合わせてこころをあらわすのではないので、いってみれば仏の意思でだれかれの差別を意識しないで一方的にいうわけです。

しかし「随自意」は前にもお話しした通り相手の状態や意識や程度に適応して誘引していくようなところがあるのです。

この誘引という語ですが必ずしもある所から別の高い仏の境涯に引き上げるとかの意味ではないのです。むしろ相手に合わせ相手のこころに随うことで①慰めを与えはしますが、全然相手を高めたりその殻を破ったりはしない。相手の居場所に留まってしまうということがあるのです。
(つづく)

 
 

2011/05/20 16:04

Commented by 広転 さん

ですからしばしば「誘引の法」というのは「次第梯墱」(しだいていとう:はしごをすこしづつ、次第次第に上にのぼっていくということです)が、少しずつ登ってゆくために結局は最上階にまで行き着かない。時間が永遠にかかって次第次第ではやっぱり目標に辿り付かないうちに死んでしまったりするのです。これを歴劫修行と仏法ではいっているのです。ようするに準備運動や練習ばかりでなかなか本当の試合に出場できない予備の選手のようなものです。

釈尊の仏教は大きくはこの「歴劫修行」と「次第梯墱」の「誘引の法」が中心なのです。理由はより多くの異なる衆生を教化するためなのです。この教化(きょうけ)というのも教え導くという意味があって現代のような人間には通用しないのです。これは教えを素直に受け入れる耳のある上代の純真な信仰心をもった人たち(キリスト教徒にもいえそうですが)にしか通用しない教えなのです。

日蓮大聖人の仏教とはインドの釈尊のそうした限定的な仏教ではない「随自意」の仏教ということになります。
(つづく)


 
 

2011/05/20 16:06

Commented by 広転 さん

tomtomさんがどこかで自問されていたような、仏様の前には仏がいたのか、あるいは仏はどのようにして仏になったのか、仏の前の世界はだれがつくったのかといった疑問がやはり日蓮大聖人にもあったのだと私は考えています。(これは次ぎの機会に書きます)

釈尊の仏教もそうですがこういう「歴劫修行」と「次第梯墱」の「誘引の法」の宗教は実に多いし、仏教の中の小乗や釈尊の大乗の教えの中にも多々あるのです。

ようするにこれらの宗教は、小出し小出しにあれこれ教えますが本当のことをなかなか教えないわけです。逆にいうと信者なり聞き手の低い痒いところがある自分に手を合わせてくれるので心地がいいわけです。その点において満足できるということでもあります。所詮はそこを徘徊しているだけなのです。そのために「随他意」の教えは常に聞いていて耳障りがよく腹が立たない癒しの宗教なのです。そういうのが仏教の中にもあるし、キリスト教やイスラム教などもそうだと考えます。
(つづく)


 
 

2011/05/20 16:07

Commented by 広転 さん

これは一つにはtomtomさんも指摘されてますが、原点となるテキストが解説者なり翻訳家によって改変されてかなりの誤魔化しがなされているからです。これは誤魔化しなので簡単にはわからないのです。

ですから階段を登ってゆくといつかは頂上に行き着くと思っていたら大間違いで、全然別のところに連れていかれてしまうということがある。場合によってはある場所に囲われてしまうということが宗教ではしばしばあるわけです。それがいい例は日蓮仏教を信仰しているとしながらも池田大作先生の解説や指導でストップしてしまう囲われてしまうというセクト状況になってしまうわけです。

ついでに付け加えますと、「随自意」は仏の一つの教えですが、「随他意」というのは解説者や仲介者の相手に適応した言葉ということでこれは相手の数だけ存在するということになりその数だけ全部異なるという特殊なものです。

 
 

2011/05/20 17:08

Commented by Tom さん

公転さん、
ご説明ありがとうございます。

私が仏教で躓いたのが正に「日蓮」様を拝むとか「法然」様を拝むとか池田大作を拝むとか人間を神格(又は仏格?)した所-なぜ人間である私が他の人間を崇拝しなければならないのか?-にありました。

私の問いは私という人間は何処から来たのか(人間は何処から来たのかと同じ問いです。)ですから人間がその答えになりえませんし、仏(仏性)もまたお釈迦様から始まる仏教では私には困るのです。
お釈迦様自身人間で、誰が彼を作ったかとの元の問いに帰ってしまいます。
イエスも人間ではないかとの声がここで聞かれそうですが、彼は聖書に神様であったとあるんですね。

しかも天地創造の神様であったとし、真の神を崇拝したいのであればイエスなる神しかいない、と言ってます。

私にとってこのイエス=キリストが池田大作=キリストであろうが日蓮=キリストであろうが親鸞=キリストであろうが誰でも良かったのです。
語弊のある言い方でしたが、名前はどうでも良いとは一神教を言い出した人が勝ちなのですね。
その先に誰もいませんから宇宙の始まりを作った「何か(それを神といおうが言うまいが)」が私の場合真実なものであろうと考えます。
しかし、現代の科学者はこの「何か」の存在を証明してくれません。
おそらく、「Big Bang」が宇宙の始まりだろうとの理論はありますがいまの所我々に知れる科学の領域での推測ですから「聖書」にまったく反対する立場としての科学にはなりえないどころかBig Bangが事実であったらそれは又「何か」による被創造物にしか過ぎない、となるでしょう。
聖書に「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」ヨハネ1:3
とあります。 

 
 

2011/05/20 18:36

Commented by Tom さん

私が聖書を読む理由になるのでしょうが、聖書って実に上手く出来ているのですね。
質問に答えられないものはない様です。
随自意、随他意も聖書によって説明すれば「神の愛(善)」が随自意で神の御心です。
神の御心は愛ですから全ての人間を愛するとの随他意を持っている。
神の御心に従うのが信者のあるべき姿です。

クリスチャンにとって何が難しいかといって「神の御心」を知る事位難しい事はないでしょう。
あるときは簡単にわかりますしある時は永久に判らないでしょう。
しかし、我々に判らない答えを「何か」なるイエス(他の名前でも構わなく、自然でもいいでしょう。)が持っていたとしたらそれを探す鍵は聖書の言葉の中にあるとが私の立場です。
言葉は読めるのですが福音書は比喩で書かれてますから判る人だけが判るように

しかもそれは厳然としてあると信じなければ探そうとする気持ちに熱が入りませんね。
このために信心が絶対必要だと私は信じるのです。

 
 

2011/05/21 00:09

Commented by Tom さん

以前にも書いたと思うのですが、創造主なる神の存在は「人間は何処から来たのか」との人類の素朴な質問に答えたものだと思います。

いま我々は地上から宇宙を見ることができます。
古代ヘブライ人も同じことを考え「なにか」が天地と人間を創らなければならなかったと考えたのでしょう。又はバビロン捕囚の際に一神教・ゾロアスター教の影響を受けたといわれてます。一神教とは即創造主なる神を意味すると思います。

この何かを古代ヘブライ人はヤハウェ(YHWH-エホバ)と呼んだそうですね。
英語ではGodと大文字になってます。
英国人も彼らの古来からの宗教をもっており木の精とか森の精はロビン・フッド達の守り神なそうです。
それらと区別する為にgodをわざわざ固有名詞のように大文字にしていますね。

 
 

2011/05/21 01:52

Commented by 広転 さん

tomtomさん

所謂、超越神とか世界創造の神ということで、神と存在の宇宙論もしくは時間論の問題が語られてきたかと思います。

>その先に誰もいませんから宇宙の始まりを作った「何か(それを神といおうが言うまいが)」が私の場合真実なものであろうと考えます。

そういう「始原性」を争うことが仏教の教義の中にもあって大問題であったのです。私はその「始原性」の課題は今で言う歴史主義の超克が問題になっていたと考えます。それとその歴史主義を支える思想である「無からは有は生じない」という誤った思想だと私は思っています。

回答から先に申しますと、この過去が現在を規定するという歴史主義的考察には限界があって、①過去により規定化される現実の人間や社会をその主体からは解放できないのです。宿命に呪われた従属的な現実ということになってしまうからです。②つまり、過去による現実の規定化、別の言い方だと先行する主権による追従者の隷属化が当然視され正当化される問題になるわけです。父と子とか、主と僕との問題ですね。この規定関係が絶対的に転換できないのです。心地よい関係だという方もいるかもしれないが、そういう限界があり人間がいつも解放されてない奴隷の思考が許容さえてしまう。人間が主人にならない封鎖された思想です。
(つづく)


 
 

2011/05/21 01:53

Commented by 広転 さん

そこから、現在は未来を規定し変えることはできるのだし、未来の主人にはなれると考える思想があるのです。一般には、過ぎ去った過去は現在からは変えられないと考えるわけですから、やはりこの歴史主義的な思考に毒されつづけていることには代わりがないのです。そう私は思います。

それで仏教の時空論ですが、これは前にtomtomさんがいわれた問いでもあります。釈尊の前の仏の存在とも関係します。いくつか順番に紹介しますが、いずれも前におはなししましたような歴史主義的な限界を脱却することには成功してないものばかりなのです。ここが釈迦の仏教がキリスト教と非常に似ているといわれるところだと考えます。

釈尊の一般的な教えでは前におはなししましたように、梯子(はしご)を次第次第に登る随他意の法でしかないこととも関係します。
(つづく)








 
 

2011/05/21 01:54

Commented by 広転 さん

それで釈尊の時間論ですが、これは①この世で生まれこの世で40年ほど修行してある日突然、樹下で初めて仏を悟った。つまり仏になったという始成正覚(しじょうしょうかく)の釈尊観が小乗の教えの中にある。次に②大乗ではこのこの世で修行してこの世で始めて悟達したという小乗の始成正覚の仏を否定するのです。

どのようにして否定するかというと、まさに歴史主義的にこの世よりもずっと遠い過去世において釈尊はすでに仏であって、それが釈迦族の王子という姿でこの世に生まれたと解釈するわけです。そういいう過程の中で衆生救済の原理が大幅に変更され拡大化されその救済原理の中に小乗が包含されてゆくという説き方をすます。

③大乗の教えではこの小乗における「遠い過去世において釈尊はすでに仏であって」という考えを覆(くつがえ)して、それよりも更に遠い過去を、つまりフランス語文法でいうような過去にたいする大過去を立てるのです。まさにこれも歴史主義でしかないのですが、まあ、そのようにして、上位概念をたててくる。

ここまでが釈迦の仏法の時空論の範疇なのです。日蓮大聖人の仏法ではその歴史主義を使わないのです。これは別に論じる必要がありますが項目だけ申しますと、先ほどの「梯子(はしご)を次第次第に登る随他意の法」を使わないということがあり、それでは山を登らずしてどうして頂上に立てるのか?とう疑問がでてくるのは当然なのです。ヘリコプターで山頂着陸を想像する人もあるかもしれないが、すこし違う。

「即身成仏の時空観」というものが用意されなければならなかったと私自身では思っているのです。

 
 

2011/05/21 02:16

Commented by 広転 さん

tomtomさん

大事なことを書き忘れました。


>言葉は読めるのですが福音書は比喩で書かれてますから判る人だけが判るように

しかもそれは厳然としてあると信じなければ探そうとする気持ちに熱が入りませんね。
このために信心が絶対必要だと私は信じるのです。



何故釈迦の仏法が母屋に母屋を重ねるようにして、現在から過去、過去からさらなる過去へと、つまり仏のおおもとである「始原性」を遡行させるわけです。それは何故なのか?ということです。

一言でいれば、時代を経るごとに、人々の信仰心が不純になって信が無くなってきていたということでしょう。こういう人々をもどう救うかという釈尊仏教側からの随他意としての救済論であった。そういう意味で釈迦仏法はキリスト教とも相似しているのではないかと考えるのです。そういう釈尊の解釈する時空の世界に自分を位置づけてその釈迦の過去の説法の法座の末席に実は自分も参加していたのだといったのが創価学会の戸田城聖という人です。日蓮大聖人の仏教を理解できなかったわけです。

 
 

2011/05/21 07:44

Commented by Tom さん

>そういう意味で釈迦仏法はキリスト教とも相似しているのではないかと考えるのです。

これは素直に同感できます。
と言っても私は本当にお釈迦様の仏法は深く理解していないのかもしれないですが幼稚園もお寺さん経営のに、行ったましたから「のの(観音)サマ」を拝んでました。
こうした教育は日本人の心からは絶対に消えないと思います。
「ののさま」もイエス様も善人になれと我々に教えてますから根底の所では大差はなく彼ら(弟子とか)はお互いにその思想を知っていて良い所を自身の教義に取り入れていたと考えるのが自然ではないでしょうか?

そういう意味では教義にはユダヤ教、イスラム教(この二つはイエスを聖人と捕らえているそうですから同根の宗教ですね。)、キリスト教、仏教は大きな違いがないと言うより、神仏の固有名詞を替えても言っている事には違和感がないのではと思います。

イエスを信じるキリスト教が他宗教と違うのは救済のイエスは三位一体の神であり創造主と同一の神である、所だと思います。

モハメッド、釈迦もイエス=キリストも聖人であることは同じようですがイエスは彼自身を神と言ってます。
私にはこの違いは決定的なものでした。
世界の人口の三分の一もの人達がキリスト教徒であるのも頷けると私は思います。

 
 

2011/05/21 07:57

Commented by Tom さん

>そういう釈尊の解釈する時空の世界に自分を位置づけてその釈迦の過去の説法の法座の末席に実は自分も参加していたのだといったのが創価学会の戸田城聖という人です。

なんとなくこの人の気持ちが分かる気がします。

「初めに言葉ありき。」- 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。ヨハネの福音書より

宇宙の種が蒔かれる以前のお話ですが理解を超える壮絶な時間の流れを思わせるもので、天地創造後最初に作ったのが光だそうですね。

1:1はじめに神は天と地とを創造された。 1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
1:3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。創世記より

この光に導き出され神の目に見える者が神の御心に適うものであり神の子とされる。
私もその時に既に神の光に照らし出されていたと信じたいです。

 
 

2011/05/21 10:35

Commented by 広転 さん

tomtomさん

今の創価学会の人は怒るでしょうが、実際に戸田城聖という人はそのような釈尊を仏としてそれに繋がる自分とうものを見ていた時期があるのです。この誤ったつまり私の言葉でいえば歴史主義的思考に毒された仏教観、つまり釈尊を遠い過去のそのまた過去の仏と立てる見方から出られないでいた時期があるのです。そうした見方では日蓮大聖人を仏とは見られないのが当然なわけです。

それはおそらくtomtomさんもおなじことでしゅうが、釈尊を仏と見ることと対立してしまいますから当然なのですが、これは誤っているのです。
(つづく)

 
 

2011/05/21 10:36

Commented by 広転 さん

この辺が一番大事な釈迦仏法と日蓮仏法の時空概念の理解し難いところですが、もっともまだ説明はし終わってないのですが、ここに過去を現在が規定し変えてゆくというこれまでには考えも及ばなかった発想があるのです。神や仏が創った世界があってもそれに随う後に生まれてきた人間が支配されたり従属的な存在としてあるのではなく、現在から過去を規定できる発想です。つまり現在の人間から過去の神なり仏を規定し位置づけてゆく宗教ということです。
(つづく)

 
 

2011/05/21 10:37

Commented by 広転 さん

この辺りが日蓮大聖人の仏法の革命的転換の一つの重要な箇所なのだと私は考えています。釈尊を仏と立てる仏法とは全然異なるのです。

これまで一応の大筋をさっとは書いて説明してきたつもりですが、そう簡単には理解できない箇所もあって当然だと思います。

 
 

2011/05/21 11:41

Commented by Tom さん

これまでに仏教の教えを相対的にご説明下さいまして非常にありがたいのですが先にも述べましたように仏教には創世記がなくお釈迦様でも神の御心は察することは出来ないと想像します。ましてやお釈迦様の説法を理解して独自の仏法を説く者の言葉を理解したとしても人間の言葉を理解しただけに留まり仏性を理解したと言えるかどうか疑問です。

これは、tvである牧師さんが聖書を振りかざして聖書にはこれこれのことをしたら神の怒りを受け地獄に落ちると書かれてあると言ったのを聞いたことがあります。
何故かこれには違和感を感じました。
確かに聖書を見ればその牧師さんが言った箇所に牧師さんが言った通りの言葉が書かれてました。

何故私が違和感を感じたのか。
それはその牧師さんが何を言おうとしていたのか、彼自身の結論に持ってゆくための引用にしか過ぎなかったと私は思ったのです。

釈迦の教えを超える釈迦の教えの説明入りませんし、ましてや自説を正当化するための釈迦の引用では新興宗教といわれても仕方がありません。
しかし日蓮仏法なるものが個人の考えであればそれは研究・考察の対象になり得るものかもしれませんが信仰の対象には成らないと思います。
それでは釈迦もイエス=キリストも同じではないかと言われるかもしれませんがそれはモハメッドと共に夫々の宗教の始祖との重みがあり初めに言った者の勝ちであろうと思います。

モルモン教にしろエホバの証人にしろ創価学会にしろ信者は情熱を持って布教をしているようです。
私が彼らに言いたいのはそれだけの情熱を何故自らが信じる基なる教義の理解につぎ込まないのか、何故他の人が言った教義の理解に熱中しその布教に情熱を燃やすのか私には理解できません。

 
 

2011/05/21 12:21

Commented by Tom さん

キリスト教、特に原始キリスト教は迫害の時代に、殉教をとても大事にしました。
日本でも遠藤周作氏の「沈黙」のテーマになったようですが、私のうろ覚えでは日本人クリスチャンが踏み絵を拒み刑を受けた背後にはイエズス会の踏んでも良いとの通知が遅れたとがあります。(又は日本での殉教者の数があまりに多くてイエズス会が驚いたと読んだ記憶がありますが定かではありません。)

私の理解ではイエスは人間の肉体を十字架にかけるべくこの世に来て罪なる肉体の復活がキリスト教に於いて人間の罪の救済のシンボルになっており、イエスの復活を信じることが神の子となる第一歩であると思います。そして神は自らの愛を人間に与え神を信じたものはその愛を周りの者へも与えることで愛の実践が完結される、つまり神の御心の実践となり神と共に永遠の命を持つ資格を与えられる。

これは随自意でもなく随他意でもない人間の行動で決まることですがそれは内的な行動(心の持ち方)で社会に働きかけてどうこうしたとの問題ではないと私は考えます。
そう聖書に書かれてあります。
マタイ7:21わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。
また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

 
 

2011/05/21 12:37

Commented by Tom さん

イエスは我々が神から与えれた罪=アダムとイヴが神の言葉に背いた罰としての生まれながらに持っている罪で、それから人間を救済するためにこの世に来た。
その救済方法は神のグレース(恵み=慈悲)によるものであったとヨハネの1:14を読みます。
浄土真宗では仏の慈悲は、仏を信じるものには無条件で与えられるもののようですが、神の慈悲は神の御心を知ってそれを行うものだけに与えられるとされているようです。

それ故に私は神の御心を知るために聖書を読もうと思うのです。
「三位一体」説は神学的には理解の難しいものだそうですが、私にはヨハネの1章を読んですんなりと理解できました。

 
 

2011/05/23 04:04

Commented by Tom さん

>神や仏が創った世界があってもそれに随う後に生まれてきた人間が支配されたり従属的な存在としてあるのではなく、現在から過去を規定できる発想です。つまり現在の人間から過去の神なり仏を規定し位置づけてゆく宗教ということです。
この辺りが日蓮大聖人の仏法の革命的転換の一つの重要な箇所なのだと私は考えています。釈尊を仏と立てる仏法とは全然異なるのです。

自力本願との意味が自己の訓練と切磋琢磨の結果、「生き仏」に成れるとと言うのであれば仏の存在との必要性は記録を伸ばす為の一里塚にしか過ぎないのではとの危惧が浮かびます。
また、その修験者は後の修験者に追い越される為の記録保持者に過ぎない。

こうした恐れ-あくまでも私見ですが-が他の人間が述べた又は記録した宗教に付き纏うのは創価学会が陥った現世利益の宗教にしばしば見られるものなのかもしれません。

宗教とは超人間としての存在を崇めるものですから人間を神格化するのは宗教の形を取ったとしても宗教とは認められないものと成るのでしょう。

 
 

2011/05/23 04:21

Commented by Tom さん

さて、神の存在を崇めると書きましたが聖書では神の存在を絶対化しております。
我々が此処に居て自然と自然の法則を見る事が出来るのですから、科学者が推測する数十億年以前に何者かがそれらを作ったと考えるのは必然だと思います。

しかしその創造主が今でもいるかと成ると私の考えに矛盾するところですが、聖書では誰も神の姿を見た事はないと言ってますし創世記にさえ1:1はじめに神は天と地とを創造された。1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。とあり、
KJヴァージョンにはAnd the Spirit of God was hovering over the face of the waters.
が「神の礼が水のおもてをおおっていた」に訳として対応する箇所ですね。

天と地を創造されたと聖書(旧約)の初めにありますが1:6神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」
と在りますのでこの時点で未だ水の塊であった天とこれまた水の塊であった地に分けたと理解できそうです。

となると、1章2節にある地とは未だ混沌とした何の区別もない原始宇宙だったのかも知れないと思ったりします。
太陽、月や星は4日目に造ったと在りますから、ま、これは古代人の知識に合わせた説明でしょうね。
太陽月星は宇宙内のものですが、聖書の神は宇宙の外に在ってしかも神はどうやら宇宙内の事は感知しなかったか、出来なかった。
そこで聖霊を遣わして宇宙内の様子を感知させたとも思えるのですがこの考えは皆さんどう思われますか?
聖書の記述によったもので別の考えがあればぜひお聞かせ願いたい。

付け加えると宇宙内の事に関与しない神であれば我々人間に関与する神があるとは思えません。

 
 

2011/05/23 06:29

Commented by 広転 さん

tomtomさんへ

>仏教には創世記がなくお釈迦様でも神の御心は察することは出来ないと想像します。ましてやお釈迦様の説法を理解して独自の仏法を説く者の言葉を理解したとしても人間の言葉を理解しただけに留まり仏性を理解したと言えるかどうか疑問です。


その創世記ですが、これは何時(いつ)の頃の話しなのでしょうか?

創世記がどうしてそんなに大事なのかよくわかりません。重要な理由とはいったい何なのでしょうか。始めに神が話したからというだけでは説明としては弱いと思うからです。

また、人間の言葉意外に神の言葉というものがあるのでしょうか?


以上のような疑問がでてきます。

 
 

2011/05/23 06:35

Commented by 広転 さん

>何故私が違和感を感じたのか。
それはその牧師さんが何を言おうとしていたのか、彼自身の結論に持ってゆくための引用にしか過ぎなかったと私は思ったのです。

釈迦の教えを超える釈迦の教えの説明入りませんし、ましてや自説を正当化するための釈迦の引用では新興宗教といわれても仕方がありません。



この牧師が読む聖書と、その説教を聴く庶民が読む聖書の文字に解釈で異なるようなことがしばしば起きるのでしょうか。それとも大体は共通しているのでしょうか。




 
 

2011/05/23 07:41

Commented by 広転 さん

>釈迦の教えを超える釈迦の教えの説明入りませんし、ましてや自説を正当化するための釈迦の引用では新興宗教といわれても仕方がありません。
しかし日蓮仏法なるものが個人の考えであればそれは研究・考察の対象になり得るものかもしれませんが信仰の対象には成らないと思います。



その通りですが、それでは何故多くの解釈や教義、そして意見をことにする新興宗教や各派の宗旨が一つの教えであるはずの釈尊の教えから無数に出てきてしまって、なぜ阿弥陀如来だの大日如来だの観音だの八幡大菩薩、さらには天照大神を信仰の対象にしているのかという問を不問にしてしまうことにもなってしまうのです。

これらの信仰は釈尊の教えを超えてなど勿論なくて、それどころか釈尊の仏教を否定し対立する教義になっている。仏教の始祖さえも変えるのが念仏であり真言など全く一般には仏教と名乗りながらこれ等はまったく仏教などではないわけです。





 
 

2011/05/23 07:55

Commented by 広転 さん

>それでは釈迦もイエス=キリストも同じではないかと言われるかもしれませんがそれはモハメッドと共に夫々の宗教の始祖との重みがあり初めに言った者の勝ちであろうと思います。



この箇所の文章では、創世記を誰が始めに宣言したのか?しなかったか?ということをtomtomさんは、いわれようとされたのでしょうか。

もし始めにこの世を創造したのは俺だと言って唾をつけた者が勝ちという論理があるとして、次ぎの疑問が残るわけです。

その創世記は、何時(いつ)の頃の話しなのか?始めに神が話したからという理由づけでは説明としては弱い。なにか証明書なり証明者がいないのか?その神が世界を始めて創造したのならその神を創造した者はいなかったのか?といった疑問で、例の無から有がどうして出てくるのかという問題にまず解答する必要があるわけです。


 
 

2011/05/23 08:29

Commented by 広転 さん

>モルモン教にしろエホバの証人にしろ創価学会にしろ信者は情熱を持って布教をしているようです。
私が彼らに言いたいのはそれだけの情熱を何故自らが信じる基なる教義の理解につぎ込まないのか、何故他の人が言った教義の理解に熱中しその布教に情熱を燃やすのか私には理解できません。


tomtomさんが上の様に指摘されたことこそが、いわゆるニセ宗教団体出現の理由の根源だろうということです。経典は難しい、漢文で書いてあって一般の庶民には読めない。大先生が之を現代語で優しく解説し誰でもがわかり易く説明してくれた講義録やスピーチ集を読めばたちどころに簡単に理解がゆく。馬鹿な俺たちには高度な仏教の教義など聞いても読んでも判らないのだから、何の役にも立たないといって釈尊の仏典を投げ捨てさせて、それに代えて大先生の解説集を読み漁るわけです。このtomtomさんのご指摘は全く納得できるものです。

つまり現代の衆生の気質というか理解の能力を一度下げるわけです。お前たちは馬鹿であると。次に仏の教えは高度であって素晴らしい。しかしお前たちには理解は無理だ。経典などいくら時間をかけて読んだところで返って苦悩が増えるだけで仏の心などわからない。それよりか、その仏の真意を体得した大先生の解説が現在人に容易に理解し仏の心に近づく最短コースなのだと教えるわけです。

だから創価学会などでは池田と呼び捨てしないで、池田大作名誉会長とか池田大作博士とか池田先生終身教授とか最大限に尊称をだしているのです。

念仏の法然などもこのようにして、民衆の機質を問題にしてこれを騒いでおいて、そこから仏教を捨てさせる教義を立てた。すなわち法然の立てた聖道浄土の二門というのがそれです。これは釈迦の仏教にさえ反した仏教否定の法然の「論」なわけです。

tomtomさんがいわれた「基なる教義の理解」を深めるのではなく、自分達の理解を中心にしてそこから経典を読むわけで所詮は自分の意識を超えない読み方なので独善化するわけです。

 

 
 

2011/05/23 09:02

Commented by 広転 さん

tomtomさんがいわれる「何故他の人が言った教義の理解に熱中しその布教に情熱を燃やすのか私には理解できません。」ですが、まさしく、イエズス会、ジュズイット派のパリの本部ミッション・エトランジェーを訪問した折にはかなり厳しい規律で布教を世界中にしていてパリのボジラー通りとラスパィユ大通りの交差した辺りにこのジュズイットの本部があり歴史博物館にもなっていて、日本への布教の展示コーナーがあったかと記憶してます。

その時にそこの僧侶がいうには日本の仏教には殉教者はいるのかと聞いてくるのです。私は何人かの名前を挙げて、日本の封建制の中で領主や権力の圧力に抗して死を賭して信仰を貫いた人々がいたことを歴史的な状況を説明しながら話しました。彼等はいないと思っていたようで驚いていたのが印象的でした。


 
 

2011/05/23 09:12

Commented by 広転 さん

>私の理解ではイエスは人間の肉体を十字架にかけるべくこの世に来て罪なる肉体の復活がキリスト教に於いて人間の罪の救済のシンボルになっており、イエスの復活を信じることが神の子となる第一歩であると思います。そして神は自らの愛を人間に与え神を信じたものはその愛を周りの者へも与えることで愛の実践が完結される、つまり神の御心の実践となり神と共に永遠の命を持つ資格を与えられる。


ここは良くわからないところです。どうして人間の肉体が罪なのか?つぎに、キリストの肉体がどうして悪の象徴として人間の前に立ち現れなければならないのか?という疑問です。

マタイの話しでは、キリスト教で神に救われる人間はすでに決まっているという思想があるのでしょうか。そんな感じがしました。もしそうならば救済という意味はかなり質量的にも限定化されてきます。

 
 

2011/05/23 09:45

Commented by 広転 さん

イエスは我々が神から与えれた罪=アダムとイヴが神の言葉に背いた罰としての生まれながらに持っている罪で、それから人間を救済するためにこの世に来た。
その救済方法は神のグレース(恵み=慈悲)によるものであったとヨハネの1:14を読みます。


私はこの神は相当に慢心高く自分の罪や原罪を話さないし認めてないのではないですか。人間を一方的に罪あるもの、しかも生まれながらにもっている罪なるものを作り上げてしまっている。これは誤魔化しではないか、これは仏教でいうところの仏の慈悲ではないのですね。キリスト教では恵みというのでしょうが、これは=慈悲と解釈することが、たいへんな誤解で危険な読み方の理解なのです。

これは大事なので隠さずに明言しておきます。

tomtomさんの読みでいわれるところの浄土真宗では神のグレース(恵み=慈悲)となるのだろうと、私も思います。しかしそれは釈尊の仏教ではないのです仏は阿弥陀仏に引き換えてあるのです。親鸞の解釈した宗派なのです。現実のこの世の衆生を救済する慈悲はなくあの世という他土の世界へいってから救済してあげるというもので、現世にまったく力のないまやかしものなのです。そういう救済の仕方はtomtomさんのいわれるように親鸞ではよくキリスト教と似ているわけです。



面白いのは例の池田大先生の場合と非常に似ている。それはtomtomさんが次ぎのよういいわれているからです。

>それ故に私は神の御心を知るために聖書を読もうと思うのです。
「三位一体」説は神学的には理解の難しいものだそうですが、私にはヨハネの1章を読んですんなりと理解できました。


難しい聖書の理解も、ヨハネでならすんなりと理解できると、問題はその聖書ですが、なぜヨハネの解説でないと理解し難いのかとうことです。

私は池田先生終身教授の解釈から仏教を理解しようとしたために、返って誤った宗教団体へと引っ張り込まれ閉じ込められた人々を多く知っています。そういう本当の教えを遠ざけて、自分の解説本を立派な箱に詰めて高く売り出すやり方というのは、法然大先生や親鸞先生がすでにやっていたことです。(時系列は前後しますが)ヨハネや創価学会もそれと同じようなことをやって信者を取り込んだのです。

 
 

2011/05/23 09:54

Commented by 広転 さん

>自力本願との意味が自己の訓練と切磋琢磨の結果、「生き仏」に成れるとと言うのであれば仏の存在との必要性は記録を伸ばす為の一里塚にしか過ぎないのではとの危惧が浮かびます。
また、その修験者は後の修験者に追い越される為の記録保持者に過ぎない。


いわれていることがよく理解できませんので詳しくはコメントは控えますが、仏という概念をどう取るのかが一つ大きな問題としてあると思います。念仏では仏教の「成仏」ではなくて「往生」とよくいうようです。これは「成仏」とは違いますね。この世でない他土(たど)に往(い)ってということなのです。ひっとして仏には生まれない教えなのです。絶対に仏にならないという意味では、絶対に神になれない人間というキリスト教とよく似ているのです。しかしこれは仏教の教えではないのです。念仏の教えなのです。

 
 

2011/05/23 10:24

Commented by 広転 さん

>さて、神の存在を崇めると書きましたが聖書では神の存在を絶対化しております。


>しかしその創造主が今でもいるかと成ると私の考えに矛盾するところですが、聖書では誰も神の姿を見た事はないと言ってますし創世記にさえ1:1はじめに神は天と地とを創造された。1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。とあり、
KJヴァージョンにはAnd the Spirit of God was hovering over the face of the waters.
が「神の礼が水のおもてをおおっていた」に訳として対応する箇所ですね。



tomtomさん、ここのところはキリスト教において何か論議とか論争がこれまでに行われてきた歴史はあるのでしょうか?「the Spirit of God」なる存在は、創造主に「神の霊」なるものを、あるいは「神の礼」ですか、そんな存在を認める表現になっているようですが?どうなんでしょう。

創造主に霊があるというのであれば、創造主ではなくなるとか?そのほうが、キリスト教の聖書も嘘はいってないということで理解が私にはいくのです。

キリスト教の聖書ではこの創世記の文章は構成的にどういう位置や意味があるのでしょうか、例えば、まとめとか序論とか結論とか、あるいは悔悟の悔い返し文とか、神の存在意義を明かすとか、その限界を規定したものだとか、等〃、なにか特別な意味があれば教えてくださればと思います。いつでも結構ですのでお願いいたします。

 
 

2011/05/23 14:42

Commented by Tom さん

ざっと拝読し私の転換間違いに気がつきました。
「神の礼」は「神の霊」が正しいです。
この部分は英語の幾つかの聖書にmoved overとwas hovering overとがあり日本語の「おおっていた」に当たる所に私が注目したと言いたかったのです。

なぜ天地を創った神が直接見て「良し」としなかったのか?
なぜ聖霊の存在を此処で「誇示」しようとしたのかとの疑問を持ちました。

聖霊の存在とは、私は何度か現実に誰かが背後に居たと感じたことがあります。
この経験は日本のクリスチャンと話して(ネットで)自分も感じたことがあるといってくれた人は誰も居ませんでしたが米国では私と同じ経験をしたことのある人は結構多いのです。
恐らくそうした話を聞いていますから多くの人々は先入観で感じるのだとは思いますが振り返ったら確実にそこに居ると思ってしまうのです。

我流の理解ですが前記は旧約創世記の1章1~2で旧約の誰もが知っている最初の部分ですね。
一節に神について書かれ、二節に聖霊について書かれてます。
私はイエスの言葉が書かれてある新約のほうに重きを認めます。
その新約のヨハネの福音書は新約の創世記といわれ旧約になかったイエスの存在を「言葉」に匂わせてあります。
ヨハネでは聖霊との明記はありませんが旧約の創世記が下敷きとなったものでしょうから「言葉」が聖霊であることは明らかと思われます。

そして、創世記1:26神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

此処で神は何者かに向かって言うように「われわれ」といってます。
これが三位一体説の根拠になっているのだと思いますがこの部分を受けたかのようにヨハネ1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2この言は初めに神と共にあった。 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
とあり、「言」を聖霊と書き換えれば聖霊は神であり、共に別物として存在することが出来たと読めます。

 
 

2011/05/23 14:43

Commented by Tom さん


更にヨハネでは、
1:9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 1:11彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。 1:12しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 1:13それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
1:14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

そして言は肉体となりわたしたちのうちに宿った。-言は人間の肉体を持ちこの世にイエス=キリストとして生まれ人々の間に棲んだ、との意味ですね。栄光云々は聖書の修辞とみますが神の意図されているものをこうした言い方をするのだとその内容を良く知らない私は考えます。
私にとって大事な部分は「恵みと真に満ちていた。」です。
先ず、「真・まこと」のほうはイエスの道は真なる神への道といった意味の事が箇所は度忘れしましたがあったと思います。
恵みとは慈悲で愛で善の全て-寛容、許し、謙遜、美、安寧、平和などなど-でありイエスはそれ以外の悪なるものは一切持っておられなかった。
その愛を神は惜しみなくふんだんに人間誰にも与えている、それを受け止め他のものに与えるのが最終的なクリスチャンであり神の子としての力が与えられ罪の穢れが洗浄されイエスの降臨の最終目的が個々人において達成されるとがキリスト教の唯一の教えではなかろうかと思うのです。

 
 

2011/05/23 14:56

Commented by Tom さん

>自力本願との意味が自己の訓練と切磋琢磨の結果、「生き仏」に成れるとと言うのであれば仏の存在との必要性は記録を伸ばす為の一里塚にしか過ぎないのではとの危惧が浮かびます。
また、その修験者は後の修験者に追い越される為の記録保持者に過ぎない。

これは私も思いつきで書いたものでした。
理解されなくてもそれは私の責任です。
仏僧と修験者を混同していました。
修験道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93

 
 

2011/05/23 15:10

Commented by Tom さん

>難しい聖書の理解も、ヨハネでならすんなりと理解できると、問題はその聖書ですが、なぜヨハネの解説でないと理解し難いのかとうことです。

ヨハネの第1章を上に挙げたとおりで、さほど理解には難しい事はなかろうかと思います。
しかし過去にイエスは神性を持たないとか、聖霊は神性を持たないとかの議論があったそうです。三位一体をウイキペディアで。
その議論の検証を神学者さん達は論じて難しくしているのではなかろうかと私には思えます。

 
 

2011/05/27 18:00

Commented by 広転 さん

tomtomさん

キリスト教は創造主に「神の霊」なるものを認めているのでしょうか。創造主の前でも、或いはその元でもいいのですが神の霊があるといことになると、創造主という一番初めの神ではなくなってしまわないのか?そういう疑問が出てくるわけですが、この辺のところでキリスト教徒に論争がなにかなかったのでしょうか。


つぎに、闇と光の関係ですが、一般には夏の夜空に撃ち上がる花火などは暗くなってからやるわけで、昼間に花火はやらない。あたりまえですが。それでは何故昼間には花火を上げないのかですが、それは光の支持体(画面)としての空が明るすぎるといことでしょうが、これは別の言い方をすると昼間の空の支持画面は花火の光を支えられないということになります。

また夜の花火こそ光を夜空が支えることができると、つまり闇こそが光を放ち支えることができるのだということです。闇は闇ではなくて闇こそ光の本源だということなおです。もしも闇の中に光がなかったのであれば夜の花火は美しくはないのだと私は考えてます。



 
 

2011/05/27 18:20

Commented by 広転 さん

>恵みとは慈悲で愛で善の全て-寛容、許し、謙遜、美、安寧、平和などなど-でありイエスはそれ以外の悪なるものは一切持っておられなかった。
その愛を神は惜しみなくふんだんに人間誰にも与えている、それを受け止め他のものに与えるのが最終的なクリスチャンであり神の子としての力が与えられ罪の穢れが洗浄されイエスの降臨の最終目的が個々人において達成されるとがキリスト教の唯一の教えではなかろうかと思うのです。

キリスト教の性格だろうと私は思うのですが、愛とか善とか慈悲とかいってもそこに与える者と与えられる者とが明解に分離されている。しかもキリストは完全は善であって悪は一切持ってないとう二元論であるわけです。どちらかが与えるものでどちらかが受けるものになる。あるいはどちらかが完全な善であってどちらかが不善であるという。

キリスト教徒は善であり、信じない者は悪であるからとして異端視されそうです。

そういう二元論の主従の関係が父子や人間同士に作られている。平等という考え方が難しくなるわけです。絶対的な善なる神がいて絶対でない人間がいる。それだけではなくて世界はキリスト教を信じる者と信じない異教徒とに分けられて、一方は神の力が分与され善なる者となり、他方は悪だと決められてしまっている。これは大変な誤った傲慢な教えだと私は思うのですがどうでしょうか。

 
 

2011/05/27 18:32

Commented by 広転 さん

人間を勝手に罪あるものに烙印し落とし入れておいて、こんどは神がその穢れた罪ある人間を清浄にして救済してあげようというのはどこか胡散(うさん)臭いし子供だましのようですね。

二元論の宗教ではどうしても一方が他方を救うことになる。それが限界なのだと思うようになっています。

われわれはというと救われる者としてしか存在しない。つまりそれは悪の奈落の底に落とされたものだからです。

 
 

2011/05/27 18:54

Commented by 広転 さん

話が前後しますが、仏がどんなものであるかという仏身観は宗教によってまた宗派で大変な異なりをもっていて、それはある意味でそれは当然なのですがその修行法もさまざまであるといわれています。

僧侶でも修行者でも信徒でも登る山頂は一つだがそこまで辿りつく道は無数だといって様々な方法を諸宗は作り出している。しかも独特な教義を立てて造作してきたようです。

そこでの主張とうのは手段は宗教によってまちまちだが目指す目的は同じだというのです。よく耳にするのがキリスト教も仏教も新道も創価学会も門の入り口は異なるが、みんな人間の幸せと世界の平和安穏を祈っているのだから何を信仰しようが個人の自由だというのです。

はたしてこのような考えはキリスト教徒にとっては正しいのでしょうか?

 
 

2011/05/27 20:04

Commented by Tom さん

>キリスト教は創造主に「神の霊」なるものを認めているのでしょうか。創造主の前でも、或いはその元でもいいのですが神の霊があるといことになると、創造主という一番初めの神ではなくなってしまわないのか?そういう疑問が出てくるわけですが、この辺のところでキリスト教徒に論争がなにかなかったのでしょうか。

ヨハネによる福音書

第1章
1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2この言は初めに神と共にあった。 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

1:9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 1:11彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。 1:12しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 1:13それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
1:14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。


私のキリスト教感(聖書の読後感といって良いと思います。)は聖書をどう理解し考え自分の血肉にするか(自身の中に確たる神-絶対神を信じるように生まれ付いておりませんので-を持つ為にとことん自分の心の中で聖書理解にあやふやさが何処にありそれに対処するため日頃の課題として心に刻み込んで置きます。
と書けばたいそうに聞こえるでしょうが、もうこんなことを十数年はしてきております。
振り返ってみれば、私の聖書理解はずいぶんと変わって来ていますから一般のクリスチャンから見たらいい加減な事をいってると思われるかもしれません。

それ故に私は聖書を元に神について考えようと思うのです。
それ以外にイエスなる神を理解し語る方法が何処にあるのでしょう?


 
 

2011/05/27 21:16

Commented by Tom さん

>この辺のところでキリスト教徒に論争がなにかなかったのでしょうか。

神学的なことは私には難しく(古代ギリシャ語を理解しなければ新約の原典は読めませんね。)私は次を読みました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93

上記の内容によりますと霊の神聖、イエスの神聖に疑問を与えているようです。
三位一体はヨハネの1:1~14を読めば誰にも分かるように書かれています。
真のクリスチャンとはイエスの言葉を何処まで本当に理解できるかどうかにあると考えますし又矛盾したことですが赤子のような信心も大切だと聖書の何処かにあった気がします。

これは仏教の煩悩との考えに似たものが聖書では人間は罪なる肉体を持つ生き物であるとの説明になっていると思います。
一般にクリスチャンは性欲は悪、飲酒は悪、金を沢山持つことは悪など等、仏教での煩悩を断ち切りなさいと教えによく似た考えを持ったし、今でも持っているようです。

私が読む聖書にはそんなことは書かれていないと思います。
例を挙げますと天国に行く為に(神の御心を知る為に)妨げになるこの世のものに執着をしてはいけない(何が大事なのか順位を間違ってしまうから)、とがありその戒めとして砂上の楼閣との言い方がありますね。

砂上とはこの世の事で神の国と比べたらどちらが大事か神を信じる上で直ぐ分かることです。
楼閣とは立派な建物で誰もそれを砂上には建てないでしょう。
福島第一原発群を津波の被害を受けると直ぐ分かるような場所に建てた謂わば砂上の楼閣です。
楼閣なる原発は立派なものですが最も大事な安全=神の御心より便利さとの砂上に建てる事を選んでしまった。

聖書の教えは我々にその選択を神は与えている、との事だと思います。
三位一体から話がそれました。
学術的な事は(ある牧師さんは神学者でもあるそうですが三位一体説はとても奥が深く難解なそうです。)私には分かりませんし正直言って聖書以外に何を読む必要があるのか私には分かりません。

 
 

2011/05/27 23:02

Commented by Tom さん

>つぎに、闇と光の関係ですが、一般には夏の夜空に撃ち上がる花火などは暗くなってからやるわけで、昼間に花火はやらない。あたりまえですが。それでは何故昼間には花火を上げないのかですが、それは光の支持体(画面)としての空が明るすぎるといことでしょうが、これは別の言い方をすると昼間の空の支持画面は花火の光を支えられないということになります。
>また夜の花火こそ光を夜空が支えることができると、つまり闇こそが光を放ち支えることができるのだということです。闇は闇ではなくて闇こそ光の本源だということなおです。もしも闇の中に光がなかったのであれば夜の花火は美しくはないのだと私は考えてます。


光と闇の関係は聖書だけではなく他の宗教にも見られる極普遍的に使われる善悪の象徴と考えております。

 
 

2011/05/27 23:28

Commented by Tom さん

>キリスト教の性格だろうと私は思うのですが、愛とか善とか慈悲とかいってもそこに与える者と与えられる者とが明解に分離されている。しかもキリストは完全は善であって悪は一切持ってないとう二元論であるわけです。どちらかが与えるものでどちらかが受けるものになる。あるいはどちらかが完全な善であってどちらかが不善であるという。

善悪の関係は聖書を読めばお分かりになるようなものです。
神は善(愛・グレース)なるものとして神自身がお創りになったと聖書を理解できますし、それに対するものとして悪魔を創ったのも神だと読めます。

>キリスト教徒は善であり、信じない者は悪であるからとして異端視されそうです。

そうした考えがあるのはよく分かります。
小沢なる方がキリスト教徒は排他的と言ってる事から推測するのですが大方の日本人の考えでもあると思われます。

もし、キリスト教徒が自分は善であり、信じないものは悪としたら、イエスからは神の子とされないとクリスチャンなら誰もが知っていることです。

マタイ5:43『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 5:45こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 5:46あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 5:47兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。 5:48それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

と書かれてありますが、はて我々の誰が神のように成れるのでしょうか?
アダムとイヴが神の言葉に背いて以来、人間は罪なる体をもって生まれたと聖書は説いています。
それなのにどうして人間は神のように成れるのか?
まったく矛盾したことをイエスはここで言ってますね。
なぜ聖書はこんなことを書くのか?
との読み方を私はしてきました。

 
 

2011/05/28 02:48

Commented by Tom さん

>これは大変な誤った傲慢な教えだと私は思うのですがどうでしょうか。

聖書的には上に書いたとおりです。
キリスト教の教えはクリスチャンでも違った考えをし、更にクリスチャンでない方がクリスチャンの言動を見て評が下されますね。
その批判はクリスチャンなる人間の行動が対象になるべきものであり聖書の教えが対象になるものではないと思います。

例をIMFのDSK(ストラス・カーン)に取りますとフランスでは政治家のセックスのスキャンダルはとても大目に見られるそうです。
どうやらカトリックを信じている国に良く見られる事だそうですが米・英ではセックスの倫理はフランスよりは厳しいのだそうです。
プロテスタントは性の倫理にカトリックより厳しいとはよく言われることです。

同じ聖書から違う理解・解釈で上記のような違いが出てくるとすればクリスチャン以外の方々の考えは如何ほどかが窺い知れます。
そうした方々の聖書の教え云々は「群盲象を撫でる」との感を失礼ながら持ちます。

 
 

2011/05/29 01:55

Commented by Tom さん

>それだけではなくて世界はキリスト教を信じる者と信じない異教徒とに分けられて、一方は神の力が分与され善なる者となり、他方は悪だと決められてしまっている。これは大変な誤った傲慢な教えだと私は思うのですがどうでしょうか。

こうした聖書の見方は旧約に当てはまる箇所があると思います。

申命記です。
31:1そこでモーセは続いてこの言葉をイスラエルのすべての人に告げて、 31:2彼らに言った、「わたしは、きょう、すでに百二十歳になり、もはや出入りすることはできない。また主はわたしに『おまえはこのヨルダンを渡ることはできない』と言われた。 31:3あなたの神、主はみずからあなたに先立って渡り、あなたの前から、これらの国々の民を滅ぼし去って、あなたにこれを獲させられるであろう。また主がかつて言われたように、ヨシュアはあなたを率いて渡るであろう。 31:4主がさきにアモリびとの王シホンとオグおよびその地にされたように、彼らにもおこなって彼らを滅ぼされるであろう。 31:5主は彼らをあなたがたに渡されるから、あなたがたはわたしが命じたすべての命令のとおりに彼らに行わなければならない。 31:6あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう」。

これに対応する記述が新約のヘブル人への手紙
13:5金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。 13:6だから、わたしたちは、はばからずに言おう、
「主はわたしの助け主である。
わたしには恐れはない。
人は、わたしに何ができようか」。
13:7神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい。

旧約ではカナンの地を神は古代ユダヤ人に与えたと書かれてますが、新約では(他人が持っているものを欲しがらずに)自分の持っているもので満足しなさいとあります。
13:7にある指導者とは晩年のモーゼのことだそうです。

 
 

2011/05/29 02:40

Commented by Tom さん

ヨシュアによって導かれた古代イスラエル人の兵はジェリコ(エリコ)の戦いに見える大勝利を収めました。これはユダヤ人の歴史の中で最大の勝利であったと言われるそうです。敵の成年男子を皆殺しにしたくらいです。

イエスの「自分の持っているもので満足しなさい。」の言葉は上記の勝利品を得ることも戒めた言葉のように私には聞こえます。
キリスト教は聖書を良く良く読めば強欲で傲慢な人々を諌めているのだと思いますが如何でしょう?

イエスは決して旧約の掟、神に従った古代イスラエル人の指導者達を否定するような発言
はしていないと思います。
私が感じるのは上記のような戦争による利益とか自身の心にある他人の持ち物を欲しがるような欲を戒めそしてユダヤ教の戒律主義者、聖なる場所で金儲けをする者を否定したと思ってます。

 
 

2011/05/29 17:22

Commented by 広転 さん

tomtomさんの言われる聖書を元にしてキリスト教という宗教を考えるのは正当だと私も考えます。これが先ず最初であり一番大切なことです。勝手な解釈などは第二次的なもので余り役にたたない。それどころかそういう解釈を中心にした教祖の宗教解釈では別の宗教団体になってしまうと思います。それで一番大事なのが原点の書ということになる。それがなかなか理解が難しいということになっている。そこにどうしても安易な解説書に頼り、結局(けっく)は騙されてしまう。そういうことだと思います。

 
 

2011/05/29 17:29

Commented by 広転 さん

釈尊の仏教の場合でも八万法蔵といわれるほど無数の経典があるのですが、これはほぼ総てが後代の人が書いたものなのです。釈尊の書いた経典は数少なくひょっとして1巻しかないのかもしれないのです。法華経というのがそれで、後の経典は誰かが水増ししたり添加したしたものかもしれないのです。もっともそれが釈迦仏法の本質的な性質でもあるのです。どうしてかというと、教えは人間の好みに随って救済を考えるというのが釈迦仏教でそうしないと救われないと説くわけです。だから理解しやすいのです。教えも信徒のその数だけあることになる。人の悩みは十人十色なのだから教えも様々に多いのは当然だというになっている。

 
 

2011/05/29 17:32

Commented by 広転 さん

俺は薬は苦いのは好きでない、甘いのが好きだということになると、この人に随って教えの法を説く釈迦仏教ではまた新しい甘い薬の経典ができるわけです。仏教といっても釈迦仏教というのはそういう随他意の教えで人々を導いて救済するために、いくらでも教えが追加されるのです。が、前にお話したとおり、所詮それは仏の本当の教えを説いたのではなくて、その時々の悩める衆生の心に合わせ随って救済するので、一見すると問題が解決したようですが、それがそうではないのです。

 
 

2011/05/29 17:37

Commented by 広転 さん

六道輪廻の苦しみの解決ですから、また繰り返し同じことで悩むわけです。貧乏が一度や二度は裕福になっても又繰り返し繰り返しそれで一生を悩むことになる。病気が治ってもまた同じ病気になるとか、抜けられない。身体てきな問題だけではなく精神的なことでも同じようにいえるのです。



ヨハネによる福音書の第1章ですか、言とは言葉のことなのか?文字なのか?は私には判断できませんが、これは誰かが誰かに対して口から発した言葉であるということなのでしょうか?もしくは誰かが書いた文字ということでなのでしょうか。

 
 

2011/05/29 17:52

Commented by 広転 さん

そしてその聖書ですが、誰か著作者というか書いた人の名前はあるのかということが知りたい。まあサインみたいなものですが、署名があるのか?無いのか?といったことです。

 
 

2011/05/29 18:14

Commented by 広転 さん

tomtomさんがいわれる仏教とキリスト教の比較で煩悩を絶つということがありますが、キリスト教の場合には性欲や酒、金を必要以上に漁ることは仏教でいう煩悩だから断ち切りなさいといっているのでしょうか?仏教では釈迦の教えでも低い教えではそのような欲望などを煩悩として捉え断じ捨て遠ざけることをいいますが、大乗では煩悩を遠ざけたり忌み嫌って厭離(おんり)することはありません。ですから悪人だから大酒のみのアルチューだから、殺人者だから強盗だからテロリストだから売春婦だからといって差別することも避ける事もないのです。その人たちに煩悩を絶てとは言わないのです。

釈迦仏法の内部でもそのくらいに釈尊初期の教えと小乗、そして大乗の経典では教えがまるで違っているのです。

仏教の低い教えでは悪人だけが救われるとか女性は穢れている衆生なので直ぐには成仏できないとか、いろいろと制約があって複雑で修行法もまちまちでやかましいのです。それは救われる人を選ばないと救えないほど教える法(宗教)に力がないからなのです。

ちょうど現代のフランス医学では新しい病気が発見されると必ずそれに対する新薬が作られます。しかしこれは必ずしも治るとはかぎらないのです。一つの病気に一つの薬ですね、よく釈尊の爾前迹門といいますが、そいう仮(かり)の教えに似ているのです。

 
 

2011/05/29 18:25

Commented by 広転 さん

キリスト教なども神は完全な善でそれに近づく信仰によって、我々不全な肉体をもった悪も救われると解くのでは、釈尊以前の宗教界と同じで、厭離断九(おんりだんく)といって九界の煩悩を厭(いと)い断じて離れようともがき苦しむわけです。ですから当然のことそこに無理が生ずるわけです。これを薦めて行くと人間が神になる作業ですから誤魔化しがでてくる。できない世界を作り上げて天国だとしているために、それが絶対に実現できないので矛盾がでてかえって苦しみが増大するのです。自分らキリスト教徒は善であればアフガニスタンのイスラム教徒は悪ということになり戦争は絶対に終わらない。キリスト教徒がそれを理論ずけしているわけです。

わたしは一神教でなくて多神教ならこの問題が、解決するとは全然思ってはいません。

 
 

2011/05/29 18:35

Commented by 広転 さん

福島原発基地の例ですが、仮にこの世の執着を絶てといったて、あの世が天国かどうかわからないのですから、この世に執着する人間なら天国にいけないという論理だとしたら、これは大変に東京電力の責任回避を助けるのに、都合のよい宗教ではないでしょうか。私はこの地上が好きだしここにもっといたいと考えます。選択ということであればへんな天国になど行きたくないのです。

これは人間は死んだら地獄か天国かといった誤った理解が巷間に流布しているからだと考えます。

 
 

2011/05/29 18:45

Commented by 広転 さん

闇と光の関係で私が思ったことを書いたのでしたが、これはtomtomさん言われている象徴として善悪の二元論の基本なのです。ところが私はその善はつまり光は、悪つまり闇という支持体が無いと光になれないということをいったのです。つまり善悪の二元論はこの闇と光の関係では対立したものではないということを言いたかったのです。つまり神は悪魔と一体だということ。光は闇夜でないと真実の意味がでない、昼間の花火は光がないのではくその本性が顕れないということです。支持体(画面としての空間でも、運命の表現としての支持体=人間でもよいのです)としての闇こそ光の源泉だということを言いたかったのです。

この意味でわたしは、人間の悪や罪として嫌われ遠ざけられて解釈されているものこそが人間を最も良くする素材であり光を放つ根源だと評価したいのです。しかしこれを実現するにはこの先の説明がまだ必要ではあります。

 
 

2011/05/29 18:56

Commented by 広転 さん

tomtomさん

マタイの有名な箇所なのでしょうが、5:47の箇所で「兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。」ここに、「異邦人」とあり、これはキリスト教徒と対比して書いているわけです。

そして5:48の箇所で「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」ここでいう「あなたがた」とはキリスト教徒ですね。

そういう対立した、今の言葉でいえば人種差別というか外国人や異邦人を嫌う宗教であることがキリスト教徒の原点となる聖書に書かれているともいえる。

 
 

2011/05/29 19:17

Commented by 広転 さん

DSKのことはやはりフランスアメリカとの宗教的背景が大きいと思います。まだ判決が出たわけではないのに大変な騒ぎでまだ容疑者にたいする人権保護もフランスではアメリカとは大分異なります。相杯ってもフランスは欧州次元での標準からはまだまだ裁判の人権保護が遅れていて先月ようやく拘置された者への弁護士がその初めから警察の審査に付けることができるようになったくらいです。

オランダやドイツに行くとここはプロテスタントの多いくにですが、性的な職業の女性はフランスとは全くことなっているようです。そのかわり家庭内ではその逆でモラルは凄く厳しいようなのです。私は詳しくはこの件に関し知らべてないので詳しくはいえませんが美術の表現などからそう見ています。ウエバーのプロ倫などではわからないような何かかありそうなのです。

このキリスト教徒が近代の世界の経済や文化に大きな根を生やし影響を与えて来た。私たちはそれからの恩恵もあったかもしれないが傷つき失ったものも多いのではないかと考えるようになっている。その原因の一つが善悪の二元論の支配であり、絶対完全なる神という非人間的概念が人間を悪として縮小化させて苦しめてしまい、苦しめる人間と苦しめられる人間の支配関係をも正当化する論理を平等なはずの人間の間につくったと考えるのです。

 
 

2011/05/29 19:51

Commented by Tom さん

順不同な応えですが、

>キリスト教の場合には性欲や酒、金を必要以上に漁ることは仏教でいう煩悩だから断ち切りなさいといっているのでしょうか?

神は人間に煩悩を生まれもって与えた、と聖書にある「罪なる肉体(アダムとイヴが神に背いた罰)」を、後世には原罪と言われるものですが、私は同等なものと受け取っています。
聖書の何処にあるかは省きますが「金を愛する心」が諸悪の根源であって必要とする人が必要な分だけ金を求めるのは罪でも何でもないといってます(私の言葉で、ですが)。
「貧しい人には恵みなさい。」(これがチャリティ=愛)仏教語では喜捨ですね。
そして、イエスは右手がした善行は左手に知らせるなと実に面白言い方でチャリティを宣伝に使うなといってます。神様はお見通しだと。
肉体の愛(エロス)についてもみだらな愛欲や肉体の喜びに耽溺してはいけないといってます。
その意味は肉体の喜びよりも精神の崇高なる喜びを忘れないようにとのことだと思います。

イエスの教えは、私見ですが、どうやら昔の日本人やインディアンの神から与えられたものや金は必要以上に欲しがったり蓄積してはいけないと同じ様な考えだと思います。
煩悩を断ち切りなさいとはイエスは言ってないですね。
こちらのクリスチャンはそしてモルモン教はアルコールはだめ、タバコはだめと聖書の何処から持ち出してきたのか、そう考える人がいます。
人間の行動を規定しておいてキリスト教ではそれはしてはいけませんと人間が持ち易い罪悪感を焚き付けているように思えて仕方がありません。
アーミッシュの教えが正にそのようで電気・電話・tvを使ってはいけないあれこれをしてはいけないとの結果、200年位前の生活を今でも続けていますね。
彼らは尊敬すべき人たちであると思いますが、私が考えるにイエスは人間の如何なる行動を禁止しているのではなく警告を出しておりそれをするかどうかは本人次第だとごじゆうにどうぞ、としています。

 
 

2011/05/29 19:57

Commented by 広転 さん

申命記ですが、

旧約ですか、読んでいて驚くのはその言葉の血生臭いことです。

「主」とか「おまえは」といった表現がやたら多いわけです。そして、その間に引っ繰り返せない主従関係がある、それが人間の間にも貫かれる論理が正当化されているということです。

tomtomさんが挙げられている箇所では、「あなたがたはわたしが命じたすべての命令のとおりに彼らに行わなければならない。」 
 
こういうのを毎日真面目に読んでいるとしたら世界は大変なことになりますね。これではアメリカやヨーロッパのキリスト教国の始めた戦争犯罪も正当化されてしまいます。戦争を犯罪などとは全然考えなられないでしょう。その原因はキリスト教の洗脳にあるとは、以前から私はみているのです。

毎日聖書でも読んで頭に言い聞かせてないと恐ろしい戦争などはとてもできないのでしょう。

「あなたがたはわたしが命じたすべての命令のとおりに彼らに行わなければならない。」 

戦争などは、神の意思だからやれるわけです。しかしこれはキリスト教は大変な誤りを犯している。


それから私が気になるのは、「これらの国々の民を滅ぼし去って」・・・この動作の主語は神であり主ですね。「あなたの神」とある。

「滅ぼす」とか、「見放す」とか、「見捨てられない」とか、これは人間が神に対して従属物でしかなく、「主はわたしの助け主である。」とは、人間には独自の責任がないことを示している文字で、これは旧約だけでなくキリスト教全体を貫く考え方なのではないでしょうか。







 
 

2011/05/29 20:14

Commented by 広転 さん

諸悪の根源というものが人間から出てきた、これが聖書にある「罪なる肉体(アダムとイヴが神に背いた罰)」を、後世には原罪と言われるもの」、これと仏教でいう煩悩ですが、tomtomさんは「私は同等なものと受け取っています。」 と言われている。前から気が付いてましたので良くわかるのです。

この煩悩は神が人間を創る時に持ち合わせて生まれさせた。つまり神が創ったのでアダムとイヴの責任ではないのではないでしょうか。彼等は煩悩のままに生きただけで罪など初めからありえ様があにのではないか。あるとしたらその創造の神に責任があると考えるわけです。

そういう考えの根拠には無からは有は発生しないということがあるのです。これは二元論で考えるキリスト教では理解ができないのは当然ですね。神が絶対に善でなくてはならないし、人間は絶対に悪でなくてはならないからです。ここにキリスト教の限界があると思います。

 
 

2011/05/29 20:20

Commented by 広転 さん

前段で、文字の打ちまちがいありました。以下のように訂正いたします。

この煩悩は神が人間を創る時に持ち合わせて生まれさせた。つまり神が創ったのでアダムとイヴの責任ではないのではないでしょうか。彼等は煩悩のままに生きただけで罪など初めからありえ様がないのではないか。あるとしたらその創造の神に責任があると考えるわけです。

 
 

2011/05/29 20:50

Commented by Tom さん

上記の根拠として神は人間をお造りになった時、アダムとの神の目に完全な人間を創りました。これは神が居たエデンの園に住んだ、とのことからの推理です。
もっとラディカルな私の考えはアダムの姿は神々(三位一体から複数にしました。)に似せたとは「言=言葉=聖霊」は神であり、イエスであったのであれば彼らには人間のような肉体があった筈がない。
この世に来たイエスは人間の肉体を持ちましたがアダムが人間の体=罪なる体をもって作られたのは矛盾があります。

死後肉体が滅びて精神だけが残り完全なる精神は神に向かい入れられるとがキリスト教や他の宗教でも同じ教えではないでしょうか?
とすれば我々は死後アダム返りをするといってもいいのではないでしょうか?
その為に完全な精神を持って暮らしなさいと聖書は言っている、と。

そうであれば何故神はアダムとイヴを造ってそれで由としなかったのか?疑問が湧きます。
旧約に、放蕩息子が家出をし食い詰めて親の元に戻ってきた時親達はこの息子を歓待するではないか、とあったと思いますがこれが神の御心でしょう。
12使徒の一人トーマスがイエスの復活後イエスの傷跡を見て「おお、我が神よ。」と悟りました。
その時イエスは「トーマスよ、あなたは幸いである。信じているからである。」と言われた。これが私だったら、「今まで何の為に私の弟子として長年私が起こした奇跡を見て来たのか。」と叱った所でしょう。

人間の弱い部分を神はお造りになったからこそそれを表す人間を更に愛するのが聖書の神だとおもいます。
これは浄土真宗の「悪人正機説」と全く同根な教えだと思います。
もっと突っ込んでいえば「福音」の教えが「悪人正機説」に時代を考えて入り込んだのではないでしょうか。

私見では、イエスが生まれた当時のイスラエルは弱い立場の者、不運な者、不幸な者達でその意味はローマ帝国の支配下にあり、聖書はそうした人々が説明なしに理解できる言葉が使われたのだと思います。
例を挙げますと、
マタイ5:46あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 5:47兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。

 
 

2011/05/29 21:07

Commented by Tom さん

此処での異邦人とは特にローマ人で取税人とは同胞からローマ帝国の為に多額な税金を取り立てる人を指すと思います。
彼らは当時のユダヤ人から非常に嫌われた人々で、誇り高きユダヤ人はそのような謂わば敵と同じ人々と同一視されたらものすごく反発したのではなかろうかと思います。
「汝の敵を愛せよ。」と当時のユダヤ人にいったらどれほど驚愕されるか目に見えるようです。
しかし、その実聖書がいいたい事は、「神は全ての人間を愛する、あなた方も神のようになりなさい。」としています。
私はこの部分に大いなる反発を感じます。
神は人間に救い様も無い「原罪」を与えて置いて、神の様に完全になりなさいとは如何なる言い草であろうかと。

これが聖書の修辞法だと思います。
人間の心をぐっと掴む見出しをつけその後に説法をする、古今東西に使われた手法の古い形なのだと思います。
神のようになれとは神の愛を実践しなさいと聖書は言ってるのでしょう。
神の愛とは何か、それを探る為に私は聖書を読むのです。

聖書は我々に我々の考え・経験の深さにあわせた答えを出してくれているのだと思います。
その意味では随他意の教えをしているのでしょうがその教えは一つの聖書の中にあるとの一貫性があり、しかもそれは唯一神(その意味する所は真実なる神)の教えであるから神を信じたい人は唯一神を信じる他に方法がないとが聖書の論調です。

 
 

2011/05/29 21:44

Commented by Tom さん

おっ、リアルタイムの応答になりましたね。^^

>旧約ですか、読んでいて驚くのはその言葉の血生臭いことです。

全く同感です。
新約のイエスの仏様のような易しさは全く無く荒々しい復讐心に満ちた男神を感じます。
そのような神をイメージしていたのは当時の社会の考えの反映と思います。
古事記などにも同様なイメージの粗野な人間の考えが垣間見られますね。

>これではアメリカやヨーロッパのキリスト教国の始めた戦争犯罪も正当化されてしまいます。戦争を犯罪などとは全然考えなられないでしょう。その原因はキリスト教の洗脳にあるとは、以前から私はみているのです。

誤解されない様に申し上げるのですが、旧約はユダヤ教の経典で新約は全く違った神の愛を強調しております。
真に聖書からの神の愛を理解したら戦争を始めて罪のない他国の市民を巻き添えにし簡単に殺す事は絶対しないはずです。
以前に「ニーバーの祈り」エントリーを上げましたがあの辺りから米国の宗教家は現実の社会の影響を受けすぎて真なる聖書の教えを曲げてしまったと思います。

米国が建国された時期はベンジャミン・フランクリンなど多くの実験のように科学が実用化され始めた時代でもあり、よく調べてはいませんがスピノザ没百年ほど後に独立宣言があり、当時のインテリには宗教的に衝撃的な影響を与えたのではなかろうかと思います。
バールーフ・デ・スピノザについて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6
彼の存在論・認識論は難しくて私にも正直な所良く分からないのですが霊的な身震いを感じました。
私の聖書読後感は、私は不可知論者であると認識させたようです。


 
 

2011/05/29 22:19

Commented by Tom さん

>「滅ぼす」とか、「見放す」とか、「見捨てられない」とか、これは人間が神に対して従属物でしかなく、「主はわたしの助け主である。」とは、人間には独自の責任がないことを示している文字で、これは旧約だけでなくキリスト教全体を貫く考え方なのではないでしょうか。

イエス自身がいっている言葉ですから神は人間を見捨てないとは永久に変わらぬ人間に対する神の愛を述べているのは間違いないでしょうね。
アダムとイブが「知恵のみ」を食べる前は確かに「人間には独自の責任がない」「従属物」と見て間違いないと私も思います。

しかし、それを神は知っていたんでしょう、アダムとイヴに神に反抗する行動をとらせた。
それが神から食べてはいけないといわれた「知恵の実」ですね。
人間は知能を持ち神の「従属物」から開放されたと聖書にあります。それほど神は人間を愛していた、イエスがこの世に来たのもその愛からであると聖書にあります。
その代わり人間は肉体を持ちその肉体には死なる滅びが与えられた、と旧約は説きます。
そして神は人間に神を信じるか、神の愛を信じるか信じないかの自由を与えたと新約にあります。
またもや私見ですが唯一神を信じ、イエスの言葉を信じる事によりスピノザの存在論・認識論が確立されそれらの論により(神の絶対存在故にではなく)人間個人の存在理由が認識されると考えます。
これはある意味、「色即是空、空即是色」の教えと全く同一と考え、有限な体に内する無限な精神があるからこそ人間には知覚されない神仏さえをも人間個々の精神に内包出来ると考えます。

 
 

2011/05/29 22:33

Commented by Tom さん

>そういう対立した、今の言葉でいえば人種差別というか外国人や異邦人を嫌う宗教であることがキリスト教徒の原点となる聖書に書かれているともいえる。

この考えは旧約に見られる事ですが、新約のヨハネの福音書に、1:12しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 1:13それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

血筋によらないとは、新約は外国人・他民族を嫌う宗教ではないとの意味ですね。
現代ではユダヤ教でも改宗した者はユダヤ教徒であると認められているそうですから異邦人を嫌う宗教は時代遅れだとされるのではないでしょうか?

 
 

2011/05/29 23:24

Commented by Tom さん

>その原因の一つが善悪の二元論の支配であり、絶対完全なる神という非人間的概念が人間を悪として縮小化させて苦しめてしまい、苦しめる人間と苦しめられる人間の支配関係をも正当化する論理を平等なはずの人間の間につくったと考えるのです。

その歴史的な過程は私は全く逆なのではなかろうかと考えます。
先ず人間は神の前に平等であるとの考えは17世紀英国で始まったクエーカーがウリアム・ペンによって米国にもたらされそれが民主主義の元になり米国憲法の骨子になったと理解しております。
その建国の父の中にはジョージワシントンのように奴隷制に基づいたプランテーション経営者が多くいたそうです。
しかし奴隷制は宗教に反するものです。奴隷制は全くの経済的理由からうまれたものでその証左に工業化された北部では倫理的な見地から奴隷制に絶えず反対しており米市民戦争中とその後奴隷制の廃止を見ております。
人間に内包された利潤追求の悪が奴隷制を作ったと見られますし、それを打破したのは人間に内容された善でもあるのではと見ます。

>絶対完全なる神という非人間的概念が人間を悪として縮小化させて苦しめてしまい

こうした見方も一理あるのでしょうが、事聖書に関しては絶対神なる神は愛と真実なる神としてイエスを記述しています。
それを信じるかどうかは個人の判断によるもので神も実際にその通りだとしています。

>善悪の二元論の支配であり

善悪二元の考えはバビロニア捕囚の際、唯一神教ゾロアスター教から習ったとされるそうです。
唯一神教は創造主が唯一と考えますから善悪二元の考えをしてもそれが世の中を支配するよりも支配者はあくまでも善なる創造主でありその下に創造主が造った悪(悪魔)の支配下に入る選択の権利を神は人間に与えたとするのが正確かと思います。
そうは言っても、
>善悪の二元論の支配であり
とは大差はないですが、実態を明確にすることでその後の演繹の仕方に違いが大きく出て来ると思われます。

 
 

2011/05/29 23:40

Commented by Tom さん

>毎日聖書でも読んで頭に言い聞かせてないと恐ろしい戦争などはとてもできないのでしょう。

私もキリスト教国といわれる米国がなぜ戦争を第二次世界大戦以降あれだけしているのか不思議に思います。
その答えとして米国の軍産体制が戦争を作っているとされますが実際に戦争に行くのは国民で国民の意思が戦争を選んでいるのですからキリスト教の教えに反する(米国民は法の前に平等と、人間は神のもとにみな平等との精神が一致しません。)行為は私にも実に不可解です。
聖書を毎日読んでいたら戦争なんか始められるものでない、が私の考えです。

>「あなたがたはわたしが命じたすべての命令のとおりに彼らに行わなければならない。」 

これは旧約の言葉くさいですね。
新約では神を選ぶかどうかの選択権が人間に与えられるとしています。
又別の箇所では「あなたが神を選ぶのではなく、神があなたを選ぶ。」とも明記されてます。
簡単にですが、あなたが神を選ぶのは私(聖霊)の働きかけによるものであるとこれを理解しております。

>戦争などは、神の意思だからやれるわけです。しかしこれはキリスト教は大変な誤りを犯している。

これもまたユダヤ教の世界ではありえますがキリスト教の世界でありえない間違いです。

 
 

2011/05/29 23:55

Commented by Tom さん

>そういう考えの根拠には無からは有は発生しないということがあるのです。

無から有は発生しない。
一般にいって同意せざるを得ないのですが、人間はどのようにしてこの世に現われたのでしょうか?
現人類が生まれたのは地球の年齢から見てそれほど昔のことではなくヒトがチンパンジーの先祖から分かれたのが600~700万年位前としてあるサイトを見ました。
これもまた地球の歴史数十億年から見たら微々たる期間です。
又、宇宙が誕生した頃には生物が存在していたと聞いたことがないのでこれは無から生が生じたと考えるのは容易な事と思います。
無から有が生じた例と考えます。

 
 

2011/05/30 00:12

Commented by Tom さん

To 広転さん
>話が前後しますが、仏がどんなものであるかという仏身観は宗教によってまた宗派で大変な異なりをもっていて、それはある意味でそれは当然なのですがその修行法もさまざまであるといわれています。
>
>僧侶でも修行者でも信徒でも登る山頂は一つだがそこまで辿りつく道は無数だといって様々な方法を諸宗は作り出している。しかも独特な教義を立てて造作してきたようです。
>
>そこでの主張とうのは手段は宗教によってまちまちだが目指す目的は同じだというのです。よく耳にするのがキリスト教も仏教も新道も創価学会も門の入り口は異なるが、みんな人間の幸せと世界の平和安穏を祈っているのだから何を信仰しようが個人の自由だというのです。
>
>はたしてこのような考えはキリスト教徒にとっては正しいのでしょうか?

キリスト教も仏教と大差は無く聖書理解の仕方で大雑把に分けても200位はあるそうです。
私は他人の信心は私の信心と同じで否定されたくないし私も否定しない立場を取りたいと思います。

しかし、誰が我々人間をこの宇宙を作ったかとの疑問になると唯一神はこの世の全てを造ったとしてますが日本の仏教では仏様がこの世の創造主であるとの考えは読んだ事はありません。
神道にしても日本の国を作ったのは数多くある神の中の二人(神)だったと古事記にあるそうですね。
言った者勝ちとは言いだしっぺが特許権を持つとの考えを私は持ちます。
結局は誰にも証明できないのが神仏の存在だと思います。

また、こちらでよく聞かれる言葉に私の信仰・言動は神に責任を持つものであって他人に対するものではない、とがあります。
私の信仰は私自身のものであり、私の親兄弟と雖も関わりの無いものです。
ですから、布教とか折伏とか他人を説き伏せる宗教には恐ろしいものを私は感じます。
仏教典とか聖書を読めば考えのある人は何かをご自身で得る事が出来るからです。

 
 

2011/06/02 08:55

Commented by Tom さん

①マタイの有名な箇所なのでしょうが、5:47の箇所で「兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。」ここに、「異邦人」とあり、これはキリスト教徒と対比して書いているわけです。

②そして5:48の箇所で「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」ここでいう「あなたがた」とはキリスト教徒ですね。

上記の山上の垂訓は無論生前のイエスが民衆に垂れたお説教ですから厳密に言えばその相手はキリスト教徒ではなく一般のユダヤ人となります。
当然、現代のキリスト教徒はイエスの言葉の意味は何であったのかと聖霊に問い掛けイエスの心を知ろうと聖書を読み考えることになります、と言ってもこれは私の場合ですが。

横道にそれますと、神の言葉を信じるとは神が書いた言葉を信じるのではなく、神が書いたとされる言葉をあたかも神が書いたと信じ込む事だと私は考えています。
聖書は誰か人が書いたのに決まってます。
うろ覚えですがイエス=キリストの死後500年程に亘って30名程の人によって書かれたとか。
1500年から200年近く昔に書かれ写経された本に1字一句の間違いがないとされるのは驚愕すべきことで、
>シェイクスピアの戯曲の正確な創作年代については多くの議論がある。またシェイクスピアが生前に自作の信頼できる版を刊行しなかったという事実により、シェイクスピア作品の多くがはらんでいるテキスト上の問題が起きている。すなわち、すべての作品の刊本の版ごとに、多かれ少なかれ原文に異同のある異本が存在しているのである(このため、シェイクスピアが実際に書いた部分と別人による改変を特定ないし推定する本文批評が現代の研究者や編者にとって大きな問題となる)。<ウイキペディアより
と比較した場合、聖書には何かの力(人的なものであれ)が働いたとする人が居ても簡単にはそれを否定できないものがあります。

 
 

2011/06/02 09:08

Commented by Tom さん

私の人生での経験に霊的に不思議な事(予知能力とか胸騒ぎ)があまりにも現実的だった為、偶然の一致では捨てきれない出来事があり、霊的な存在は全く信じていませんでしたが(今でも他人の霊的経験は99.99%信じないほどです。)肯定もしなければ否定もできないものと考えるようになりました。

「随他意」とは真に有難い言葉だとつくづく感じ入ってます。
人それぞれに極楽に導くとの意味は「死後」ではなく各人がこの世で極楽浄土に居る気持ちに成れる様にと説法して下さるのであれば、イエスを神と信じ、イエスの復活を信じることで肉体の罪の穢れから救われると説く聖書の言葉に良く似ていると思います。

イエスの復活は罪なる体を滅ぼしてから生き返ったことでイエスを信じれば人間の罪から開放されるとの意味は一度聞いただけで、はいそうですか、と信じられる人は余程の天才かさもなくば何も考えない素直な人ではなかろうかと思います。

その為に、
>神の言葉を信じるとは神が書いた言葉を信じるのではなく、神が書いたとされる言葉をあたかも神が書いたと信じ込む事だと私は考えています。
との手順を私は取っています。

「聖書信仰」との言葉があるそうですが、これは聖書の言葉を神の言葉と信じる事なそうですが、私も嘗てその考えをしていたのですが、どうもこれには稚拙な考えに思えて仕方がなくなってきました。
何故かは、誰かが神の言葉であると定めることが出来るのでしょうか?
神の言葉ではないかもしれないが聖霊の導きを信じて神の御心は何であるのかと巡礼のように捜し求めるのが正しい聖書の読み方ではなかろうかと私の心は言っています。
これは私から神への告白です。

 
 

2011/06/03 20:44

Commented by 広転 さん

ここでも、神が人間に先行し超越する存在として世界が構想されている誤りがある。そのために神は完全絶対だが人間は偏頗な取るに足らない神の証明役のような存在としてしか立ち現れないのがキリスト教徒の世界のようです。その世界を是認することが良き信徒でありすなわち、弱者としての悪者としての人間を受け入れるという人間に隊sる蔑視の根拠をつくっている。それはキリスト教徒の神を信ずるものと信じないものとでも差別がつくられるといいうものです。どうしてそのような差別と分離の世界認識になるのか?その原因はなんなのか?私は一番の問題は神の形成にあると考えます。すなわち神といったったところでいろいろ中身が異なるわけです。仏教でも爾前迹門の仏と本門の仏とでは天地雲泥の差がありますが。さらに釈尊の仏法と日蓮大聖人の仏法ではそういう高低浅深の相対的な差ではなくて完全に世界の構成認識が異なってくる。これは地球から太陽をみるのと太陽から地球をみるほどちかってくるわけです。

 
 

2011/06/03 20:49

Commented by 広転 さん

>私はこの部分に大いなる反発を感じます。
神は人間に救い様も無い「原罪」を与えて置いて、神の様に完全になりなさいとは如何なる言い草であろうかと。

これは面白い発見です。そしてtomtomさんはこれは修辞法だといわれる。だとしたら、そして永遠に神にはならない人間への例え話しであったのならば、それはまやかしの飾り物という教えでしかないといることでしょう。その神の言葉を探ったところで信じられる結論が現実にあるわけがない。それは神が永遠に天使でも近づくかもしれないが神にはならない思想だからです。これが二元論の神の一番の悪い問題なのだと思います。

 
 

2011/06/03 21:06

Commented by 広転 さん

>そして神は人間に神を信じるか、神の愛を信じるか信じないかの自由を与えたと新約にあります。

これにたいするtomtomさんの私見は、「唯一神を信じ、イエスの言葉を信じる事によりスピノザの存在論・認識論が確立されそれらの論により(神の絶対存在故にではなく)人間個人の存在理由が認識されると考えます。」とありますね。

これは大変に面白い。まず私はこれを二つにわけて解釈します一つはいうまでもなくキリストの教えを信じた人の存在論です。もう一つがそれを信じない人、つまりそれらの人が「人間個人の存在理由が認識される」とうことではないでしょうか。

はじめからキリスト教徒はすべての人を全部あらゆる例外ないしに救うとはいってないのだと思います。悪人でけとか信じる者だけとか必ずこういう宗教では限界や条件を設ける筈です。

神を信じない者も信じる者も、賢者も愚者も、男も女もあらゆる人を異教徒もイスラム教徒も仏教徒もなんでもかんでも救うとはいってないし神になれるともいわないのです。いえないというほうが正確なのですが。

ですから有限なのが正体で、無限性は見せかけの姿だと思うのです。そういう信仰がキリスト教なのでしょう。ですから救いは一部の悪人とか信じるものとか、本当は誰も救われない救いのない教えなのだとうべきでしょう。


 
 

2011/06/03 21:08

Commented by 広転 さん

前の段の、最後の行は、「誰も救われない救いのない教えなのだというべきでしょう。」に訂正いたします。

 
 

2011/06/03 21:26

Commented by 広転 さん

この神の愛です。この神の愛がさきほどもいいましたように全人類に等しく与えられてない。つまりそこに条件が限界が施されている。たとえばそれは悪人だけが救われるとかいうのとよくにているわけです。
ですから

>新約のヨハネの福音書に、1:12しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

となるわけです。これは条件つきの話しなのです。

「しかし、彼を受け入れた者」の話しであり、「その名を信じた人々」だけの限定付きのはなしなのです。しかもそうしたところで神と同一にはならないのです。

その後に書かれている。

> 1:13それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

ここも、前段の条件の上での話しなのです。

ですからジャワの原始仏教徒であろうが、イスラム教徒であろうがない宗でも無神論者でも神を信じなくてもすべて全人類が神の愛によって同胞で差別がないと言うわけではないのです。これは神を信じるもの、その名を信じた人々だけに限って、つまり限定付きの集団内部での愛でしかないのだということです。キリスト教徒内部のコミニュティーの構成員だけの愛ということでしょうか。けっしべあらゆる人が無条件で全人類が平等な愛ではないのです。ここにキリスト教徒の他宗教徒を差別しする二元論の問題があるのです。

愛とはそういう内容の教えでしかないのだと見ますが、他にキリスト教の教えの徳目となる価値はあるのでしょうか。


 
 

2011/06/04 00:35

Commented by Tom さん

To 広転さん
>ここでも、神が人間に先行し超越する存在として世界が構想されている誤りがある。そのために神は完全絶対だが人間は偏頗な取るに足らない神の証明役のような存在としてしか立ち現れないのがキリスト教徒の世界のようです。

神仏を超人間として崇拝するのが宗教(仏教も同一)ですからその前提を過ちとすれば公転さんは無神教とのお考えをお持ちなのでしょうか?
無神教とした理由は、神仏の存在は証明出来ないとされてますから分からないものを信じるのが宗教です、又同時に神の不在の証明は実に困難なものですから不在を信じるのもまた宗教となるでしょう。

人間の煩悩とは又人間の「傲慢」を意味すると思います。
私にとって自身の傲慢・煩悩と面と向かって対した時、神仏の存在は極めて有効なものです。
他のクリスチャンのことは知りませんが、聖書は私の考えの指向を教えてくれるものです。

>その世界を是認することが良き信徒でありすなわち、弱者としての悪者としての人間を受け入れるという人間に隊sる蔑視の根拠をつくっている。

そうしたクリスチャンが多く居るのは違い無く、善悪の根拠を聖書に起いた考えを他人に押し付けたがる間違いを起こしております。
例えば堕胎法を厳しく設定する要求がそれで殆ど全ての堕胎を禁止との考えは神から与えられた命は奪ってはいけないとするキリスト教徒に多く見られます。極端な例は堕胎クリニックの医師を狂信的なクリスチャンが射殺した事件がありました。

誰が見ても聖書ではそんな教えをしていないのですがクリスチャンでさえ聖書を間違って理解している、聖書を読んだことが無く他人の意見に同意するような考えは日本人に多くあって然るべしと思います。

>それはキリスト教徒の神を信ずるものと信じないものとでも差別がつくられるといいうものです。どうしてそのような差別と分離の世界認識になるのか?その原因はなんなのか?私は一番の問題は神の形成にあると考えます。

上記の説明で人間の行為は神をどのように形成したのか全く関わりのないものだといえましょう。
又、聖書の真理、教えを米国のあるグループは大きく過ちを犯して理解している例があります。
「ニーバーの祈り」がそれです。
米国人向けに英語で現在その原稿を書いております。

 
 

2011/06/04 13:18

Commented by Tom さん

To 広転さん
>すなわち神といったったところでいろいろ中身が異なるわけです。仏教でも爾前迹門の仏と本門の仏とでは天地雲泥の差がありますが。さらに釈尊の仏法と日蓮大聖人の仏法ではそういう高低浅深の相対的な差ではなくて完全に世界の構成認識が異なってくる。これは地球から太陽をみるのと太陽から地球をみるほどちかってくるわけです。

聖書もそうした見かたが出来るのではないでしょうか?
聖書の比喩は神の御心を知ろうとしない人には分からないように書かれてある、とあります。

マルコ4:33イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。 4:34譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。

 
 

2011/06/04 13:36

Commented by Tom さん

To 広転さん

>これは面白い発見です。そしてtomtomさんはこれは修辞法だといわれる。だとしたら、そして永遠に神にはならない人間への例え話しであったのならば、それはまやかしの飾り物という教えでしかないといることでしょう。その神の言葉を探ったところで信じられる結論が現実にあるわけがない。それは神が永遠に天使でも近づくかもしれないが神にはならない思想だからです。これが二元論の神の一番の悪い問題なのだと思います。

私はそうは考えません。
何故ならこの修辞はあまりにもあからさまだからです。
聖書にはこのようなあからさまな「嘘=修辞」が多くみられます。

マタイ7:7求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 7:8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

7:11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。

神の良い物とは神の子となる「義」と思います。
「求めるものは得る」とは神への信仰であって人間がこの世で最も欲しがるものを神は与えてくれるのではありません。

 
 

2011/06/04 13:51

Commented by Tom さん

神の言葉を探って確実に何かを得られるとの保証は何もなく二者間でまったく違った結果を得ることがあるのは我々のコメントに証明されていますね。

私のここでのコメントを誰に読んでもらえるかと考えた場合、それは私の心の中にある神が対象になっております。
その神は聖書の神でもあり私が否定した神の存在はこのような過程を経て厳然として存在しているのです。
その神に対して正直な私の考えはこうですと述べるのが私のテスティモニー。
これは責任を伴う記述です。

 
 

2011/06/04 14:19

Commented by Tom さん

>もう一つがそれを信じない人、つまりそれらの人が「人間個人の存在理由が認識される」とうことではないでしょうか。

人間を創った神を信じるからこそ、個々の存在が確認されイエスのグレースを信じるからこそ存在理由が生まれるとの論から全く反対の事が何故導かれるのかよく私には分かりません。

>ですから有限なのが正体で、無限性は見せかけの姿だと思うのです。そういう信仰がキリスト教なのでしょう。ですから救いは一部の悪人とか信じるものとか、本当は誰も救われない救いのない教えなのだとうべきでしょう。

上記は、神は信仰の自由を人間個々人に与えたとの証明と言えると思います。
一つの聖書から出て最小見積もっても200以上の派がキリスト教にあり、またイエスを信じながら独自な聖書を持つモルモン教やエホバの証人などもあります。
私はそのような違った信心も個人のものだし又イエスや聖書の否定も各人の考えのものです。
その考えは議論がなされた上で未だ変化がないものであれば誰からも尊重されるべきものであると私は考えます。

マタイ 10:14もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。

これは双方に当てはまるべき言葉と思います。
自分のみが正しいとするのは片手落ちです。
しかしこれがクリスチャンのあるべき態度だと思います。
したがってキリスト教宣教師がアフガニスタンに滞在し殺害されたとのニュースを聞く時マタイ10:14の言葉をどう受け取っていたのかと思います。
彼らの行動は明らかに聖書に反するものですがジャッジは私になく彼らが神に向かったときに下されるものですね。

 
 

2011/06/04 14:42

Commented by Tom さん

>愛とはそういう内容の教えでしかないのだと見ますが、他にキリスト教の教えの徳目となる価値はあるのでしょうか。

上記のお考えはヨハネ1:12しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

彼とはイエスですが人間に力を与えたとはイエスがイエスを信じたものをくリスチャンとしたといってるのではないのです。
神の子としたといってるのではないのです。
自分で自分をクリスチャンだといっても神の目には神の御心とともにあって神の愛を実践した者のみが神の子として迎え入れらるとあります。
その実態は何かと問われたら恐らく良寛さんとか親鸞さん等が当るのではなかろうかとマジに思います。

よくイスラム教で神の御心のままに、とか、スペイン語でバヤコンディオス(神とともにお行きなさい。)とか聞きますがキリスト教の根源もこれと同じではないかと思います。
これは私の全くの聖書読後感です。

私は仏教典を読んだことがないので申し難いのですが、公転さん聖書をお読みになった事がありましたら再び次のマタイ5章から8章まで読んでみて下さい。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html

 
 

2011/06/04 21:49

Commented by 広転 さん

tomtomさん

私の話が遅れていますので、少し戻ります。

>キリスト教も仏教と大差は無く聖書理解の仕方で大雑把に分けても200位はあるそうです。
私は他人の信心は私の信心と同じで否定されたくないし私も否定しない立場を取りたいと思います。


理解の仕方で百にも千にも増えるだと思います。そしてなぜ増えるのかが非常に重大なことです。でも仏教の教えは本当は一つしかないのですね。

信心ということは個人の自由でなにを信仰してもよいし人に強制はするもんではない。しかしこれは宗教そのものを論ずることとは全然別なことだと考えます。宗教はそれを論ずるべき対象であり得るはずです。そうでなければ単なる個人の私的な感想文でしかなくなり普遍的な多くの人を納得させるある意味での客観性をうしなってしまうでしょう。





 
 

2011/06/04 22:43

Commented by Tom さん

>でも仏教の教えは本当は一つしかないのですね。

それをご存知でしたら是非お聞かせ下さい。
失礼ながらそれは仏教の教えではなく仏心の教えは一つしかないとのいい違えではないかと思います。
仏教は公転さん自身色々な例を挙げられてましたよね。


 
 

2011/06/04 23:07

Commented by Tom さん

>信心ということは個人の自由でなにを信仰してもよいし人に強制はするもんではない。

強制しようとしたって出来るものではありません。

>しかしこれは宗教そのものを論ずることとは全然別なことだと考えます。宗教はそれを論ずるべき対象であり得るはずです。

確かにその通りと思います。
それが出来る人は極めて宗教に深い知識と霊的洞察を持ち公平な立場にある人のみと私は考えます。
私にはその素養がありませんので私の考えは聖書読後感と繰り返し述べております。

>そうでなければ単なる個人の私的な感想文でしかなくなり普遍的な多くの人を納得させるある意味での客観性をうしなってしまうでしょう。

私的な考えは私的なもので他人とは全く関係ない私と神の間の信仰で、正直なところは極めて狭隘なものであるかもしれませんし、全人類に関わるものなのかもしれません。
投網ですべての人間を救済にかけるとの宗教(信じれば救われる等)は私には飴玉をやるから泣き止みなさいと同様な程度と思います。
そのような宗教を信じたがる人も多いのはまた現実と思います。
今まで何度も述べてますが聖書のどの部分をとるかで聖書の言葉の意味が全く変わるものとなります。
選択するのは読む側の人間の問題ですからその理解は必ずしも神のみこころとはおなじではないです。

違った信仰を持つものが宗教の違いを論じてもよほど公平な立場を持たないと我田引水と繰り返すと思われます。ある信仰心を持つものは強く念じて避けるべきものと思います。その考えの元になる聖書の箇所は前記してあります。

 
 

2011/06/05 04:29

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>
>更にヨハネでは、
>1:9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 1:11彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。 1:12しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 1:13それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
>1:14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
>
>そして言は肉体となりわたしたちのうちに宿った。-言は人間の肉体を持ちこの世にイエス=キリストとして生まれ人々の間に棲んだ、との意味ですね。栄光云々は聖書の修辞とみますが神の意図されているものをこうした言い方をするのだとその内容を良く知らない私は考えます。
>私にとって大事な部分は「恵みと真に満ちていた。」です。
>先ず、「真・まこと」のほうはイエスの道は真なる神への道といった意味の事が箇所は度忘れしましたがあったと思います。
>恵みとは慈悲で愛で善の全て-寛容、許し、謙遜、美、安寧、平和などなど-でありイエスはそれ以外の悪なるものは一切持っておられなかった。
>その愛を神は惜しみなくふんだんに人間誰にも与えている、それを受け止め他のものに与えるのが最終的なクリスチャンであり神の子としての力が与えられ罪の穢れが洗浄されイエスの降臨の最終目的が個々人において達成されるとがキリスト教の唯一の教えではなかろうかと思うのです。


ここで私の思うのは、キリスト教の有限性というものです。つまり初めと終わりがあるとうことです。初めは神の天地創造です、終わりは終末です。これは閉じた封鎖体系の思想ですから1から10までで閉塞していて、その前もその後もなく、やり場がないものです。人間の置かれた位置や運命がすでに決められていて、図式が決まったものです。そこでの救済もすでにきまっているというもので新たに救われる者が付け加えられるものでもない。

 
 

2011/06/05 04:55

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>>この辺のところでキリスト教徒に論争がなにかなかったのでしょうか。
>
>神学的なことは私には難しく(古代ギリシャ語を理解しなければ新約の原典は読めませんね。)私は次を読みました。
>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93
>
>上記の内容によりますと霊の神聖、イエスの神聖に疑問を与えているようです。
>三位一体はヨハネの1:1~14を読めば誰にも分かるように書かれています。
>真のクリスチャンとはイエスの言葉を何処まで本当に理解できるかどうかにあると考えますし又矛盾したことですが赤子のような信心も大切だと聖書の何処かにあった気がします。
>
>これは仏教の煩悩との考えに似たものが聖書では人間は罪なる肉体を持つ生き物であるとの説明になっていると思います。
>一般にクリスチャンは性欲は悪、飲酒は悪、金を沢山持つことは悪など等、仏教での煩悩を断ち切りなさいと教えによく似た考えを持ったし、今でも持っているようです。
>
>私が読む聖書にはそんなことは書かれていないと思います。
>例を挙げますと天国に行く為に(神の御心を知る為に)妨げになるこの世のものに執着をしてはいけない(何が大事なのか順位を間違ってしまうから)、とがありその戒めとして砂上の楼閣との言い方がありますね。
>
>砂上とはこの世の事で神の国と比べたらどちらが大事か神を信じる上で直ぐ分かることです。
>楼閣とは立派な建物で誰もそれを砂上には建てないでしょう。
>福島第一原発群を津波の被害を受けると直ぐ分かるような場所に建てた謂わば砂上の楼閣です。
>楼閣なる原発は立派なものですが最も大事な安全=神の御心より便利さとの砂上に建てる事を選んでしまった。
>
>聖書の教えは我々にその選択を神は与えている、との事だと思います。
>三位一体から話がそれました。
>学術的な事は(ある牧師さんは神学者でもあるそうですが三位一体説はとても奥が深く難解なそうです。)私には分かりませんし正直言って聖書以外に何を読む必要があるのか私には分かりません。
>
>



ここでの、仏教の煩悩ですが、

 
 

2011/06/05 04:56

Commented by 広転 さん


ここでの、仏教の煩悩ですが、これは小乗などでは煩悩を離れるのに煩悩を滅したり断つという様々な修行をするわけです。しかしこれは小乗以前の教えですね。

大乗では煩悩は滅したり断絶したりしないということです。人間の煩悩の存在を積極的に評価して創造的に利用してゆくということがあるのです。つまり煩悩は悪の象徴ではなくなるというそういう転換の思想が大乗の教えにはある。

ですから選択するというのも小乗的な低い教えなので、どちらか片方を厄介払いしなければならなくなっているわけです。結論すればその何かを断じたり選択しなければならないということは、何かを捨て滅すると言うことであって、そうしないとすべてを救えないということなのです。

 
 

2011/06/05 05:07

Commented by 広転 さん

何かを捨て滅すると言うことであって、そうしないとすべてを救えないということなのです。というよりは一人も救えないというのあ真実なのでそれを隠す道具としての選択だの捨てるつまり取捨選択があるのだと見たほうがよいのではないかということです。だから部分的な救済であり条件がいつも必要なのです。

信ずるものだけしか救われないのです。問題は不信の時代にあって信仰のない多くの人々がこの選択に漏れるわけですが、こういった人々は救われない宗教なのです。ある意味では救済力が弱いともいえる教えなのです。

信じない者も救われる方途を説かないわけです。取り残され苦しむ人々をつくって哀れんでみせるわけです。これはまったく不平等な人間観なのだと思います。なにしろ地上の人間世界に差別をもうけるわけですから。

 
 

2011/06/05 05:23

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>これまでに仏教の教えを相対的にご説明下さいまして非常にありがたいのですが先にも述べましたように仏教には創世記がなくお釈迦様でも神の御心は察することは出来ないと想像します。ましてやお釈迦様の説法を理解して独自の仏法を説く者の言葉を理解したとしても人間の言葉を理解しただけに留まり仏性を理解したと言えるかどうか疑問です。
>
>これは、tvである牧師さんが聖書を振りかざして聖書にはこれこれのことをしたら神の怒りを受け地獄に落ちると書かれてあると言ったのを聞いたことがあります。
>何故かこれには違和感を感じました。
>確かに聖書を見ればその牧師さんが言った箇所に牧師さんが言った通りの言葉が書かれてました。
>
>何故私が違和感を感じたのか。
>それはその牧師さんが何を言おうとしていたのか、彼自身の結論に持ってゆくための引用にしか過ぎなかったと私は思ったのです。
>
>釈迦の教えを超える釈迦の教えの説明入りませんし、ましてや自説を正当化するための釈迦の引用では新興宗教といわれても仕方がありません。
>しかし日蓮仏法なるものが個人の考えであればそれは研究・考察の対象になり得るものかもしれませんが信仰の対象には成らないと思います。
>それでは釈迦もイエス=キリストも同じではないかと言われるかもしれませんがそれはモハメッドと共に夫々の宗教の始祖との重みがあり初めに言った者の勝ちであろうと思います。
>
>モルモン教にしろエホバの証人にしろ創価学会にしろ信者は情熱を持って布教をしているようです。
>私が彼らに言いたいのはそれだけの情熱を何故自らが信じる基なる教義の理解につぎ込まないのか、何故他の人が言った教義の理解に熱中しその布教に情熱を燃やすのか私には理解できません。
>
>



ここでのお話しは、

 
 

2011/06/05 05:24

Commented by 広転 さん


ここでのお話しは、「始原性の争い」と私はいっているのですが、

tomtomさん初めにいった者が勝ちということをおっしゃっている。

そういうことであれば、誰かがキリスト教の世界創造よりも前のある時点で前世界創造があったのでそれが○○○なる前神だと言ったらば、はたしてそれで事足りるのだろうかということがあります。

仏教でも仏の始まりが何時だったのかを争う論争があるわけです。前にもお話ししたことですが、歴史上では3000年前にこの世で仏になったとしても、その前を立てる者がいて仏になったのは何億万年前だと立ててくるのです。そうするとまた別の者がそれよりも前の過去世の何兆億千万年か前に仏になったとその有限性をつまり仏の生命の長さ長大さを無限化するわけです。前にもお話ししましたがここでいくら過去にさかのぼっても歴史的相対性の違いでしかないわけです。

つまりどちらが言い出したのが過去で時間的に早かったかでしかないわけです。これはいくらでもその過去性というものを新たに追加できるわけで絶対的な保障のない世界なわけです。

 
 

2011/06/05 10:30

Commented by Tom さん

>初めは神の天地創造です、終わりは終末です

私は聖書の解釈は自分の考えさえもすべて疑って考察します。
これがTom(Thomas)の名前のもとになっております。

聖書は全て比喩で書かれていると以前に書きましたよね。
天地創造も比喩で書かれてあり誰もアダムは土から粘土細工のように作られたと信じる人はそうはいない。

終末をなぜそう簡単に信じるのですか?
イエスが何故再びこの世に来る必要があるのでしょうか?
良く考えてみてください。

イエスは慈悲と真(まこと)に溢れている神だと聖書にあります。
そのイエスがこの世の終末をもたらすのは矛盾があります。

終末は聖書に書かれてあるから信じなければならないという人がいます。
私には聖書の趣旨とこの世の終末とが結びつきません。

 
 

2011/06/05 10:37

Commented by Tom さん

To 広転さん
>
>ここでの、仏教の煩悩ですが、これは小乗などでは煩悩を離れるのに煩悩を滅したり断つという様々な修行をするわけです。しかしこれは小乗以前の教えですね。
>
>大乗では煩悩は滅したり断絶したりしないということです。人間の煩悩の存在を積極的に評価して創造的に利用してゆくということがあるのです。つまり煩悩は悪の象徴ではなくなるというそういう転換の思想が大乗の教えにはある。
>
>ですから選択するというのも小乗的な低い教えなので、どちらか片方を厄介払いしなければならなくなっているわけです。結論すればその何かを断じたり選択しなければならないということは、何かを捨て滅すると言うことであって、そうしないとすべてを救えないということなのです。

なるほど。

 
 

2011/06/05 10:44

Commented by Tom さん

>信ずるものだけしか救われないのです。

これはすべての宗教に当てはまるようです。
しかし、聖書の教えではそれはスタートで神のみこころ=愛の実践をして神の子となるとあります。
私はキリスト教徒だというだけでは神の目には神の子とはならない。
なんどかこれは書いてますが。

 
 

2011/06/05 10:52

Commented by Tom さん

>そういうことであれば、誰かがキリスト教の世界創造よりも前のある時点で前世界創造があったのでそれが○○○なる前神だと言ったらば、はたしてそれで事足りるのだろうかということがあります。

ありえません。
なぜなら、新約の創世記と言われるヨハネ 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
があるからです。

私の「先に言った者勝ち」とは歴史の中のことで後出しジャンケンをしてこの考えはどうだは中国のブランド権侵害商品みたいなものです。

 
 

2011/06/05 11:07

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>公転さん、
>フランスの聖人信仰のお話ありがとうございました。
>フランス人って中国人に似ていると思っていましたが彼らの職業別の聖人信仰は中国の大家族別の先祖崇拝の信仰によく似ていると思いました。
>要するに守護神的な現世利益信仰でこの世で益になる宗教信仰は利益を目的としたカルト的な新興宗教とたいしたかわりが無い物に思えます。
>何を求めるのか、との個人の考えに迎合し先回りし投網にかける宗教は大概金儲けを主にしたものでなければこの世での名声を期待しているのかもしれません。
>
>>こういう池田大作先生の教えが日蓮大聖人の仏教だと誤解している人は多いのです。
>同じことがつまり福音信仰や念仏経典(解説書)にも言えるのだと思うのです。
>
>創価学会もカトリックもプロテスタントも先人の解釈をそのまま信仰であるとするのは誤解であり間違いであるとのご指摘であれば私も同意致します。
>
>恐らく、ギリシャ語で書かれた新約聖書を、原文のままに英語に訳され(King James Version)それを色んな英文のバージョンに訳された聖書を読める人々は幸せだと思います。
>仏経典をやさしい日本語で読め小学生でも理解できるとしたらどれほど素晴らしく将来その子達にどれだけ影響を与えることでしょうか。
>
>日本人にとって仏経の素晴らしさは言う間でもないですが西洋人にとっての聖書ほどの価値があるどうか、私には疑問です。




tomtomさんも指摘される「個人の考えに迎合し先回りし投網にかける宗教」、つまり宗教の信者への「迎合」はなにを意味するのか?ということです。これはキリスト教の愛の教えと深く関係していると私は考えています。この愛は仏教での慈悲と同じだと考えられがちですが全然異なるものです。

 
 

2011/06/05 11:09

Commented by 広転 さん

tomtomさんも指摘される「個人の考えに迎合し先回りし投網にかける宗教」、つまり宗教の信者への「迎合」はなにを意味するのか?ということです。これはキリスト教の愛の教えと深く関係していると私は考えています。この愛は仏教での慈悲と同じだと考えられがちですが全然異なるものです。たしかに仏教には愛のようなものを説いた教えもあるのですが。慈悲はそれに対立した概念として指摘されています。簡単にいいますと、悲母の愛、厳父の慈悲とっているのがこれです。そして慈悲という場合にも慈と悲は対立する概念で構成されていると私は見ています。

 
 

2011/06/05 11:12

Commented by 広転 さん


仏教は様々に教えが説かれていますので、いろいろな説明の仕方があって面食らうのですが、その認識に一応・再応という見方があるのです。

例えば、一応の辺においてで言えばですが、母親の愛という釈尊の仏教の教えは実に無数で多いわけです。これは前に話した通りで、宗教の数、恐らくは信徒の理解の数ほどあるわけです。これを随他意の教えとか釈尊の一生の説法の中には五十余年の教えというわけです。

つまり仮りの教えでまだ本当のことを直接は言わない次第誘引の教えであるわけです。これが母親の子供に対する愛の教えとうことに一応の辺ではなります。ですから母親に導かれるわけで子供には非常に気持ちのよいもので救われたような安心感がこの愛には一応はあるものなのです。

ところが再応これを見ると、救われたように見えた子供は全然救われてないのです。それどころか苦しんでいることになる。しかし子供にも母親にもそれがわからない。

 
 

2011/06/05 11:13

Commented by 広転 さん

どうしてかというとですが、この釈尊の五十余年の間に説かれた教えというのは所詮は子供の悩み煩悩や苦悩を出てないのです。その子供の悩みを叶える方法しか提出してないので、いつまでたっても子供なり病人なり信者の悩みが繰り返し繰り返し回ってくる。子供の悩む結果しか解決してませんから、その原因の問題を解決してないので、また同様な問題なり苦悩に沈むのです。これを六道輪廻の繰り返しの世界というわけです。

そしてそこからの脱却がつまり六道輪廻からの遠離する思想が必要になってくる。そのために小乗とおなじように大乗においてもこの六道という日常世界の煩悩を断破したり絶つことが望まれる。

またこの苦海に沈むの穢れた世を逃れて他土に逃れたり、かつは天国を目指したりするわけです。このような宗教はすべてあの世を立てるわけです。仏教でもこの世とあの世をたてる宗派があり、あの世を浄土とする誤った考えがあるわけです。それはこの教えがもともと子供の願望を癒す母親の愛を重大視するところから出ているからです。これを是正し糾(ただ)さなければ、子供は母の悲母の愛から解放されないともいえるのです。

つまり日常の苦悩から解放されるためにはどうするのかという教え教義の救済力の問題なのです。このようなキリスト教や念仏などの随他意の宗教の教えでは、つまり救済論ですが、結局は信者の世界をでてないので、それを叶えてもまた子供は飴がほしい玩具がほしいと悩み続けるわけです。

 
 

2011/06/05 15:30

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>上記の根拠として神は人間をお造りになった時、アダムとの神の目に完全な人間を創りました。これは神が居たエデンの園に住んだ、とのことからの推理です。
>もっとラディカルな私の考えはアダムの姿は神々(三位一体から複数にしました。)に似せたとは「言=言葉=聖霊」は神であり、イエスであったのであれば彼らには人間のような肉体があった筈がない。
>この世に来たイエスは人間の肉体を持ちましたがアダムが人間の体=罪なる体をもって作られたのは矛盾があります。
>
>死後肉体が滅びて精神だけが残り完全なる精神は神に向かい入れられるとがキリスト教や他の宗教でも同じ教えではないでしょうか?
>とすれば我々は死後アダム返りをするといってもいいのではないでしょうか?
>その為に完全な精神を持って暮らしなさいと聖書は言っている、と。
>
>そうであれば何故神はアダムとイヴを造ってそれで由としなかったのか?疑問が湧きます。
>旧約に、放蕩息子が家出をし食い詰めて親の元に戻ってきた時親達はこの息子を歓待するではないか、とあったと思いますがこれが神の御心でしょう。
>12使徒の一人トーマスがイエスの復活後イエスの傷跡を見て「おお、我が神よ。」と悟りました。
>その時イエスは「トーマスよ、あなたは幸いである。信じているからである。」と言われた。これが私だったら、「今まで何の為に私の弟子として長年私が起こした奇跡を見て来たのか。」と叱った所でしょう。
>
>人間の弱い部分を神はお造りになったからこそそれを表す人間を更に愛するのが聖書の神だとおもいます。
>これは浄土真宗の「悪人正機説」と全く同根な教えだと思います。
>もっと突っ込んでいえば「福音」の教えが「悪人正機説」に時代を考えて入り込んだのではないでしょうか。
>
>私見では、イエスが生まれた当時のイスラエルは弱い立場の者、不運な者、不幸な者達でその意味はローマ帝国の支配下にあり、聖書はそうした人々が説明なしに理解できる言葉が使われたのだと思います。
>

 
 

2011/06/05 15:33

Commented by 広転 さん

前段のtomtomさんの主張(全部を再掲載してませんが)のコメントですが、


神が仕掛けて落とした人間の弱点を、その神が救うというのはまったく滑稽なお芝居になっている。だから放蕩息子は何時(いつ)までも放蕩息子だし弟子はいつまでも弟子でその師匠の先生には絶対にならない。それは創価学会でも同じことで、大先生の弟子はいつでも弟子の真似をして満足してなければならないのです。キリスト教徒もこれと同じで、絶対に神にはなれないしキリストを導く者になど到底なれるわけがないという一方が絶対的に他方を支配するという従属関係が規定された宿命論なのです。そこに主従関係の転換が起こらないのです。

その宿命論の仕掛けとは、つまり、精神と肉体、師と弟子、神と子という二元論の貧困性なのであります。

 
 

2011/06/05 15:34

Commented by 広転 さん

放蕩息子はその母への従属を愛の思想で変えることはできないどころか返ってさらなる宿命の渦(うず)のなかに絡め取られてゆく。神の僕となった場合は救われるとして、それ以外の人間の自立を認めない思想がキリスト教徒に広がるわけです。もっとも神を信ずるキリスト教徒とは神の僕ですから神の従属ものとして救われるという論理なのでしょう。しかしその神と子の従属を許す論理の非人間性が、つまり神自らが人間に課した偏ぱな弱さによって、今度はキリスト教徒による現実社会での異教徒への従属と支配を容認することになったのです。これは近代の戦場の部隊を見て見てみればよくわかります。

 
 

2011/06/05 15:35

Commented by 広転 さん

現在、欧米の世界各地での戦争介入は全く正当な論理のない身勝手なものです。アフガニスタンリビアやコートジボワールでは、総て論理が立たない戦争なので、勝手に正当性を作り上げて戦争介入の大儀名分としている。そのために、根拠付けが必要なわけで、その一つに国連の名前使用してこれを隠れ蓑として使っている。或いはナトーとかを使うわけです。

主権国家へ勝手に入り込んでいって人殺しをやるにはそんな手の込んだ正当性を担保しておかないと、彼等の戦争は人殺しの戦争犯罪として裁かれてしまうからです。しかしながらキリスト教の教えはこの犯罪を禁止してないと思われる。それは絶対に人を殺してはならないという教えが欠落しているからだと思います。

 
 

2011/06/05 15:35

Commented by 広転 さん


悪人だけ救うとか信じる者だけ救うという教えは、一部の者だけを優遇する偏ぱな世界観を造る根拠になっているのです。法然の教えにもありますが、親鸞のの念仏やキリスト教の「福音」の教えが一部の悪人や善人しか救えない救済力の不足した教えに基づくことが、現代社会の戦争とか人種差別や人権侵害の不平等とかの問題を解決できないどころか掻き立てる根拠があるとわたしは見ています。

 
 

2011/06/05 16:18

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>此処での異邦人とは特にローマ人で取税人とは同胞からローマ帝国の為に多額な税金を取り立てる人を指すと思います。
>彼らは当時のユダヤ人から非常に嫌われた人々で、誇り高きユダヤ人はそのような謂わば敵と同じ人々と同一視されたらものすごく反発したのではなかろうかと思います。
>「汝の敵を愛せよ。」と当時のユダヤ人にいったらどれほど驚愕されるか目に見えるようです。
>しかし、その実聖書がいいたい事は、「神は全ての人間を愛する、あなた方も神のようになりなさい。」としています。
>私はこの部分に大いなる反発を感じます。
>神は人間に救い様も無い「原罪」を与えて置いて、神の様に完全になりなさいとは如何なる言い草であろうかと。
>
>これが聖書の修辞法だと思います。
>人間の心をぐっと掴む見出しをつけその後に説法をする、古今東西に使われた手法の古い形なのだと思います。
>神のようになれとは神の愛を実践しなさいと聖書は言ってるのでしょう。
>神の愛とは何か、それを探る為に私は聖書を読むのです。
>
>聖書は我々に我々の考え・経験の深さにあわせた答えを出してくれているのだと思います。
>その意味では随他意の教えをしているのでしょうがその教えは一つの聖書の中にあるとの一貫性があり、しかもそれは唯一神(その意味する所は真実なる神)の教えであるから神を信じたい人は唯一神を信じる他に方法がないとが聖書の論調です。




つまり異邦人としてユダヤ同胞からも嫌悪されたある種の人たちがいたわけですね。そこに敵との対立ができている。

 
 

2011/06/05 16:19

Commented by 広転 さん



ここでのtomtomさんの理解は私も納得します。しかしそれが方便で後で(本当の)教えを説くと言われますが、前座でしかなく、それがないのではないか?店先に観客を大勢集めたのはこれからはじまる紙芝居の駄菓子を買わせるためで、そこに最終的な救いはなく、小出しのお芝居での回答が毎回毎回準備されていて、毎回また来週にここでこの時間にということになっているような気がするのです。第一にそうしないと宗教が経営的にやっていけないということがある。




 
 

2011/06/05 16:21

Commented by 広転 さん


ですからtomtomさんのいわれる聖書の大衆、つまり紙芝居おじさんのお得意のお客(子供たちなかに親や大人がいてもいいのですが)たちを引き続けるためにも、あまりそのお客層から意識が乖離した話しはできないということになる。ここでも相手に合わせた随他意の説教というのに限界がでてくるわけです。(ある意味で)本当に愛が欠落しているわけです。一部の衆生を対象にした救済の問題はこの愛の独善性と排他性にあるわけです。他人というのは明らかに異教徒であり、すでにその言葉の根拠が自分のコミュニティの同胞愛を対極に認めている言葉だからです。これを乗り越えなければいくら他人を愛せよといってもだめなのだと考えるのです。

つまり自分の内部に神の子への愛という二つに分かれた存在があるからです。子が神に愛を授けることが許されてないからです。

そういう次第誘引の毎回毎回時間をかけて又来週式の段階的修行というのにはまやかしの宗教が多く本当の救いはないのだと、そのようなやり方では長期にわたって、痒いところは多少はなでなでされて満足するのでしょうが、財貨を搾り取られるだけで、本来、宗教のもつ心身(しんしん)両面にわたる救済はないのだと思います。
 
念仏や創価学会やキリスト教を信じていれば救われるというのは、それはそれは極めて楽しいものでもあるのです。なにしろ自分の喜ぶ箇所に手をいれて愛撫してくれるわけですから、しかしそれは所詮、その観客や信者をいなしているだけにすぎない。ばかな信者や観客の場合にはそれで十分に喜ぶので、十分なのです。

 
 

2011/06/05 16:35

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>おっ、リアルタイムの応答になりましたね。^^
>
>>旧約ですか、読んでいて驚くのはその言葉の血生臭いことです。
>
>全く同感です。
>新約のイエスの仏様のような易しさは全く無く荒々しい復讐心に満ちた男神を感じます。
>そのような神をイメージしていたのは当時の社会の考えの反映と思います。
>古事記などにも同様なイメージの粗野な人間の考えが垣間見られますね。
>
>>これではアメリカやヨーロッパのキリスト教国の始めた戦争犯罪も正当化されてしまいます。戦争を犯罪などとは全然考えなられないでしょう。その原因はキリスト教の洗脳にあるとは、以前から私はみているのです。
>
>誤解されない様に申し上げるのですが、旧約はユダヤ教の経典で新約は全く違った神の愛を強調しております。
>真に聖書からの神の愛を理解したら戦争を始めて罪のない他国の市民を巻き添えにし簡単に殺す事は絶対しないはずです。
>以前に「ニーバーの祈り」エントリーを上げましたがあの辺りから米国の宗教家は現実の社会の影響を受けすぎて真なる聖書の教えを曲げてしまったと思います。
>
>米国が建国された時期はベンジャミン・フランクリンなど多くの実験のように科学が実用化され始めた時代でもあり、よく調べてはいませんがスピノザ没百年ほど後に独立宣言があり、当時のインテリには宗教的に衝撃的な影響を与えたのではなかろうかと思います。
>バールーフ・デ・スピノザについて。
>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6
>彼の存在論・認識論は難しくて私にも正直な所良く分からないのですが霊的な身震いを感じました。
>私の聖書読後感は、私は不可知論者であると認識させたようです。
>
>
>


tomtomさんがいわれたことですが、

>真に聖書からの神の愛を理解したら戦争を始めて罪のない他国の市民を巻き添えにし簡単に殺す事は絶対しないはずです。

 
 

2011/06/05 16:36

Commented by 広転 さん


tomtomさんがいわれたことですが、

>真に聖書からの神の愛を理解したら戦争を始めて罪のない他国の市民を巻き添えにし簡単に殺す事は絶対しないはずです。


これは、神の愛の現実的な社会への反映としてつまり実際のこの世での実現ということと関係があると思います。

キリスト教徒の戦争についてはすでに触れておきましたとおりです。
キリスト教の教えに責任があるのです。

ニーバーについてキリスト教徒である佐藤優氏がなにか書いているようですが私はこの二人を知らないのです。

キリスト教の限界は解釈の誤りだけでなく翻訳の誤解もあると思いますが、なにしろ一つの言語から世界中に翻訳されているのですから。しかしそれらが主要なキリスト教の限界ではなくて、本来的に現代を救えない教えであるとうのがわたしの考えです。

 
 

2011/06/05 17:01

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>>「滅ぼす」とか、「見放す」とか、「見捨てられない」とか、これは人間が神に対して従属物でしかなく、「主はわたしの助け主である。」とは、人間には独自の責任がないことを示している文字で、これは旧約だけでなくキリスト教全体を貫く考え方なのではないでしょうか。
>
>イエス自身がいっている言葉ですから神は人間を見捨てないとは永久に変わらぬ人間に対する神の愛を述べているのは間違いないでしょうね。
>アダムとイブが「知恵のみ」を食べる前は確かに「人間には独自の責任がない」「従属物」と見て間違いないと私も思います。
>
>しかし、それを神は知っていたんでしょう、アダムとイヴに神に反抗する行動をとらせた。
>それが神から食べてはいけないといわれた「知恵の実」ですね。
>人間は知能を持ち神の「従属物」から開放されたと聖書にあります。それほど神は人間を愛していた、イエスがこの世に来たのもその愛からであると聖書にあります。
>その代わり人間は肉体を持ちその肉体には死なる滅びが与えられた、と旧約は説きます。
>そして神は人間に神を信じるか、神の愛を信じるか信じないかの自由を与えたと新約にあります。
>またもや私見ですが唯一神を信じ、イエスの言葉を信じる事によりスピノザの存在論・認識論が確立されそれらの論により(神の絶対存在故にではなく)人間個人の存在理由が認識されると考えます。
>これはある意味、「色即是空、空即是色」の教えと全く同一と考え、有限な体に内する無限な精神があるからこそ人間には知覚されない神仏さえをも人間個々の精神に内包出来ると考えます。





大変に素晴らしい発言をされていると拝見いたしました。

「従属物」から解放なのですが、解放後も旧植民地の経済的な独立を認めないキリスト教国の欧米支配に良く似ているわけですね。







 
 

2011/06/05 17:02

Commented by 広転 さん

大変に素晴らしい発言をされていると拝見いたしました。

「従属物」から解放なのですが、解放後も旧植民地の経済的な独立を認めないキリスト教国の欧米支配に良く似ているわけですね。


個人の存在認識は神を鏡にしてのものであることが問題なのだろうということです。神を手本にしてではなくて人間を鏡にした神が存在しなければならないのだと考えます。そうでないと窮屈で人間は窒素させられる。そんなちっぽけな神を汝は信じるのか信じないのかとやっているから、異教徒への戦争が許されてしますのです。


「色即是空、空即是色」は仏教内部でも「即」の概念が良く理解されてない誤解の非常に多いものだと思っております。


>>これはある意味、「色即是空、空即是色」の教えと全く同一と考え、有限な体に内する無限な精神があるからこそ人間には知覚されない神仏さえをも人間個々の精神に内包出来ると考えます


tomtomさんがいわれる例の言いだしっぺが勝ちですが、キリスト教の教えの中で一番初めにこの概念が出たとは思われないのです。したがって仏教と同一というのではなく、何処から持ってきた、厳しく言えば盗んできた、あるいは借用したとうっことではないでしょうか。キリスト教の教えにもともと存在している教えではないし、同一ではないのだと考えます。

そういうふうにしてキリスト教の教義の弱点を近代の人間存在の問題で、補完しようとしてみせる学者はきっと多いのでしょう。しかしそれはキリスト教ではない解釈であり別なものです。


 
 

2011/06/05 17:09

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>>そういう対立した、今の言葉でいえば人種差別というか外国人や異邦人を嫌う宗教であることがキリスト教徒の原点となる聖書に書かれているともいえる。
>
>この考えは旧約に見られる事ですが、新約のヨハネの福音書に、1:12しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 1:13それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
>
>血筋によらないとは、新約は外国人・他民族を嫌う宗教ではないとの意味ですね。
>現代ではユダヤ教でも改宗した者はユダヤ教徒であると認められているそうですから異邦人を嫌う宗教は時代遅れだとされるのではないでしょうか?
>



よい問題の提出だと私も思います。


キリスト教徒は他の教徒と仲良くできるのかということで大変に興味をそそられます。

 
 

2011/06/05 17:35

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>>その原因の一つが善悪の二元論の支配であり、絶対完全なる神という非人間的概念が人間を悪として縮小化させて苦しめてしまい、苦しめる人間と苦しめられる人間の支配関係をも正当化する論理を平等なはずの人間の間につくったと考えるのです。
>
>その歴史的な過程は私は全く逆なのではなかろうかと考えます。
>先ず人間は神の前に平等であるとの考えは17世紀英国で始まったクエーカーがウリアム・ペンによって米国にもたらされそれが民主主義の元になり米国憲法の骨子になったと理解しております。
>その建国の父の中にはジョージワシントンのように奴隷制に基づいたプランテーション経営者が多くいたそうです。
>しかし奴隷制は宗教に反するものです。奴隷制は全くの経済的理由からうまれたものでその証左に工業化された北部では倫理的な見地から奴隷制に絶えず反対しており米市民戦争中とその後奴隷制の廃止を見ております。
>人間に内包された利潤追求の悪が奴隷制を作ったと見られますし、それを打破したのは人間に内容された善でもあるのではと見ます。
>
>>絶対完全なる神という非人間的概念が人間を悪として縮小化させて苦しめてしまい
>
>こうした見方も一理あるのでしょうが、事聖書に関しては絶対神なる神は愛と真実なる神としてイエスを記述しています。
>それを信じるかどうかは個人の判断によるもので神も実際にその通りだとしています。
>
>>善悪の二元論の支配であり
>
>善悪二元の考えはバビロニア捕囚の際、唯一神教ゾロアスター教から習ったとされるそうです。
>唯一神教は創造主が唯一と考えますから善悪二元の考えをしてもそれが世の中を支配するよりも支配者はあくまでも善なる創造主でありその下に創造主が造った悪(悪魔)の支配下に入る選択の権利を神は人間に与えたとするのが正確かと思います。
>そうは言っても、
>>善悪の二元論の支配であり
>とは大差はないですが、実態を明確にすることでその後の演繹の仕方に違いが大きく出て来ると思われます。



17世紀はフランスは反宗教改革の時代です。16世紀にはプロテスタントが騒ぎますからカトリック教会はこれに対抗するために神への反抗者をバロック的脅かしで改宗をストップさせたのが17世紀の時代です。

 
 

2011/06/05 17:36

Commented by 広転 さん

17世紀はフランスは反宗教改革の時代です。16世紀にはプロテスタントが騒ぎますからカトリック教会はこれに対抗するために神への反抗者をバロック的脅かしで改宗をストップさせたのが17世紀の時代です。その前のルネッサンス期にフランスは奴隷制度をマルチニックなどからはじめている。この16世紀ルネッサンスは聖書のギリシャ語からの新解釈でプロテスタントが起こった。ミケランジェロの奴隷もルネッサンス美の一つの象徴だと見ています。ここでもキリスト教は奴隷制を認めてしまっているのです。

「奴隷制は全くの経済的理由からうまれたもの」だといわれますが、キリスト教はそれをストップさせる宗教ではなかったということです。ストップさせられなかったということです。黒人たちはキリスト教徒に改宗することで救われるという教えではないでしょうか。もともと他人を愛する宗教で、これほど矛盾した教えはないのです。いっていることとやっていることが分裂している。いまの欧米のやっている戦争をみているとこの偽善性が良くわかり腹立たしくさえなりますが、これは宗教の誤りによる害毒だとはよく言ったものですね。言葉ではないのです。そういうキリスト教徒のやっている実際の行為のことが確かに今問われているのでしょう。

 
 

2011/06/05 18:08

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>>毎日聖書でも読んで頭に言い聞かせてないと恐ろしい戦争などはとてもできないのでしょう。
>
>私もキリスト教国といわれる米国がなぜ戦争を第二次世界大戦以降あれだけしているのか不思議に思います。
>その答えとして米国の軍産体制が戦争を作っているとされますが実際に戦争に行くのは国民で国民の意思が戦争を選んでいるのですからキリスト教の教えに反する(米国民は法の前に平等と、人間は神のもとにみな平等との精神が一致しません。)行為は私にも実に不可解です。
>聖書を毎日読んでいたら戦争なんか始められるものでない、が私の考えです。
>
>>「あなたがたはわたしが命じたすべての命令のとおりに彼らに行わなければならない。」 
>
>これは旧約の言葉くさいですね。
>新約では神を選ぶかどうかの選択権が人間に与えられるとしています。
>又別の箇所では「あなたが神を選ぶのではなく、神があなたを選ぶ。」とも明記されてます。
>簡単にですが、あなたが神を選ぶのは私(聖霊)の働きかけによるものであるとこれを理解しております。
>
>>戦争などは、神の意思だからやれるわけです。しかしこれはキリスト教は大変な誤りを犯している。
>
>これもまたユダヤ教の世界ではありえますがキリスト教の世界でありえない間違いです。



神を選ぶとは、取捨選択することで、何かを捨て去ることでもあるのです。また選択するというのも同じことで、これも何かを排斥する教えだと私はみています。

 
 

2011/06/05 18:09

Commented by 広転 さん


神を選ぶとは、取捨選択することで、何かを捨て去ることでもあるのです。また選択するというのも同じことで、これも何かを排斥する教えだと私はみています。どういうことかというと、神はいろいろあるが俺を選べとうことでしかないのです。そしたら汝は救われるぞよという次元のものでなんらそこに保障はない。誤魔化しのよくやる手口です。ですから現実にtomtomさんが認めるようにキリスト教国といわれるアメリカで戦争がかくも多いわけだということが良く理解できるのです。

キリスト教それ自体に解決を与える力がないつまり救済力がないので、神を信じる選択を人間側の責任にしているだけなのです。選んだ場合には更にこの人種差別の蔑視史観が増大する。

それはtomtomさんにお聞きしたいのですが、アメリカでは裁判や結婚式などの席上で聖書に手を置いて宣誓のようなことをする習慣はないかということです。フランスは一応のことですがカトリック教の国ですが共和制のライシテ(政教分離)が憲法で定まっていて、教会での結婚も聖書宣誓も義務ではないし宗教教育などはない。しかしそうはいっても伝統や習慣で信仰してない人も多いし教会など日曜礼拝にも出席するひとは稀なのです。

しかしその国がカトリック教の習俗を引きずってきたという歴史や風習の残滓があるわけです。そういう国の宗教的な運命が戦争に無関係ではないといいたいのです。国次元での偽善の戦争が行われるのは、勿論のこと教会に行く信者が沢山いれば、いうまでもないことです。

 
 

2011/06/05 18:44

Commented by Tom さん

>神の僕となった場合は救われるとして、それ以外の人間の自立を認めない思想がキリスト教徒に広がるわけです。

ヤコブの手紙 2:23こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。 2:24これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

イエスは多くの人々を「Friend(友よ)」と呼んでいます。
「神の僕となり救われる」は修辞的ですね。
つまり嘘です。

>もっとも神を信ずるキリスト教徒とは神の僕ですから神の従属ものとして救われるという論理なのでしょう。

聖書をお読みください。


 
 

2011/06/05 18:50

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>>そういう考えの根拠には無からは有は発生しないということがあるのです。
>
>無から有は発生しない。
>一般にいって同意せざるを得ないのですが、人間はどのようにしてこの世に現われたのでしょうか?
>現人類が生まれたのは地球の年齢から見てそれほど昔のことではなくヒトがチンパンジーの先祖から分かれたのが600~700万年位前としてあるサイトを見ました。
>これもまた地球の歴史数十億年から見たら微々たる期間です。
>又、宇宙が誕生した頃には生物が存在していたと聞いたことがないのでこれは無から生が生じたと考えるのは容易な事と思います。
>無から有が生じた例と考えます。




これこそがtomtomさんの一大事であるようですね。なんとなくわたしはそう思っているのです。

 
 

2011/06/05 18:50

Commented by 広転 さん

これこそがtomtomさんの一大事であるようですね。なんとなくわたしはそう思っているのです。

有無(ゆうむ)の二元論からではこの回答はでません。ご指摘のとおり無理がでてしまいますので、どうしてもtomtomさんがいわれるように「>無から有が生じた例と考えます。」と成るのです。


しかしその前段で書かれていることが更に素晴らしもので、つまり「>又、宇宙が誕生した頃には生物が存在していたと聞いたことがないのでこれは無から生が生じたと考えるのは容易な事と思います。」 と言われている。


いつでしたかハロウィーンのお化けカボチャの写真を見せていただきました。あれは野菜という生物なのです。これは小さな種が水や土や光にあたって生育し大きなカボチャになったものです。このカボチャ以前に、つまり生物の発生以前に土や空気や水や光がなかったのかということです。それとこの土や空気や水や光というものはカボチャと同じく生きている生命のある存在としてあったと考えるわけです。

動物も生物も植物も人間も生きている存在ですが、これらに先行しているとされる土や空気や水や光などがそもそも人間や動植物の生命そのものなのではないか?それらは同じものではないかと私は考えるわけです。

(そしてですね)ここが一番大切なところで二元論を覆(くつがえ)すものなのですが、それらの間には差別がなかったとうことです。それらの間に越えられない境界線をつくってしまったものこそが、キリスト教神学であったのです。神を頂点とする人間、動物、植物、鉱物などの境界線で仕切った世界の構成認識です。

ちょと考えにくいのですが、これらを区別してもその間に差別を置かない宇宙観が求められるわけです。

 
 

2011/06/05 18:55

Commented by Tom さん

>キリスト教の教えに責任があるのです。

聖書からは戦争の肯定は見られません。
コーランでも戦争を肯定していないそうです。
旧約はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の原点ですから共通点が多いと思えます。
仏教も平和の宗教ですから、教理に戦争責任があると考える人はいません。

しかし、キリスト教徒は過去にあまりにも大きな間違いをあまりにも多くしてきました。
若い頃の私はそのキリスト教徒たちの誤りをキリスト教の教えのせいだと考えました。
ですから公転さんのお気持はよくわかります。

 
 

2011/06/05 19:03

Commented by Tom さん

>従属物」から解放なのですが、解放後も旧植民地の経済的な独立を認めないキリスト教国の欧米支配に良く似ているわけですね。

マタイ 22:21彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。

 
 

2011/06/05 19:08

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>>神の僕となった場合は救われるとして、それ以外の人間の自立を認めない思想がキリスト教徒に広がるわけです。
>
>ヤコブの手紙 2:23こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。 2:24これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。
>
>イエスは多くの人々を「Friend(友よ)」と呼んでいます。
>「神の僕となり救われる」は修辞的ですね。
>つまり嘘です。
>
>>もっとも神を信ずるキリスト教徒とは神の僕ですから神の従属ものとして救われるという論理なのでしょう。
>
>聖書をお読みください。
>
>
>


そうするとキリスト教徒とは何を信仰するもののことで?何を信仰しないもののことか?友達というのならキリスト教の布教は必要なくなってくるし隣人への愛は誤魔化しはもともと必要ないものになる。

これは明らかに修辞であり偽善なのですね、ここでも条件があるのです。それを満たした者という条件付きの限定においてのことでしかなのです。つまり「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」ということなのです。まずはtomtomさんが提示されているヤコブの手紙 2:23でも神による支配とはこの条件の内においてのことだと断りがきを指しているわけです。




 
 

2011/06/05 19:12

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>>キリスト教の教えに責任があるのです。
>
>聖書からは戦争の肯定は見られません。
>コーランでも戦争を肯定していないそうです。
>旧約はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の原点ですから共通点が多いと思えます。
>仏教も平和の宗教ですから、教理に戦争責任があると考える人はいません。
>
>しかし、キリスト教徒は過去にあまりにも大きな間違いをあまりにも多くしてきました。
>若い頃の私はそのキリスト教徒たちの誤りをキリスト教の教えのせいだと考えました。
>ですから公転さんのお気持はよくわかります。


宗教が人間の問題を解決できないといわれるのなら、その多い戦争を起こしている米国の原因は他にあるというのでしょうか?

 
 

2011/06/05 19:19

Commented by Tom さん

>キリスト教の限界は解釈の誤りだけでなく翻訳の誤解もあると思いますが、なにしろ一つの言語から世界中に翻訳されているのですから。しかしそれらが主要なキリスト教の限界ではなくて、本来的に現代を救えない教えであるとうのがわたしの考えです。

ネット上で簡単に各国の聖書が読めます。
とは言っても私が理解できるのは日・英と西語を辞書を引きながら少し。
英語だけで30ほどの違った聖書があります。
翻訳の誤解とはその分野でのエキスパートが担当しているはずですからそれが問題になるのは極めてまれなことなはずです、または皆無に近いでしょう。

正直な所、私は英語で聖書を読んできましたから日本語の方が理解に時間がかかりました。
例えば義人との言葉を正しく理解できる日本人はどれだけいるのだろうと考えます。
誤訳をすることなく、もっともっと簡単な日本語訳聖書をネット上で読める環境を作ってもらいたいものだと思います。
そうすることで聖書の誤訳を心配より聖書・キリスト教への間違った先入観を無くすることが出来ると思われます。

 
 

2011/06/05 19:21

Commented by Tom さん

>例えば義人との言葉を正しく理解できる日本人はどれだけいるのだろうと考えます。

↓訂正。

例えば(聖書を初めて読んで)義人との言葉を正しく理解できる日本人はどれだけいるのだろうと考えます。

 
 

2011/06/05 19:25

Commented by Tom さん

>17世紀はフランスは反宗教改革の時代です。16世紀にはプロテスタントが騒ぎますからカトリック教会はこれに対抗するために神への反抗者をバロック的脅かしで改宗をストップさせたのが17世紀の時代です。

人間は幾ら神を信じても罪を持って生まれてきたとの聖書の教え通りだと感じました。

 
 

2011/06/05 19:33

Commented by Tom さん

>動物も生物も植物も人間も生きている存在ですが、これらに先行しているとされる土や空気や水や光などがそもそも人間や動植物の生命そのものなのではないか?それらは同じものではないかと私は考えるわけです。

同感です。
アダムを神は土から作った、は御伽噺ですが上記の比喩と考えています。

カボチャは毎年種から一苗は育ててますのでよく分かるいい例でした。^^

 
 

2011/06/05 19:53

Commented by Tom さん

>ちょと考えにくいのですが、これらを区別してもその間に差別を置かない宇宙観が求められるわけです。

宇宙観は私には分かりません。
しかし、私の中の善悪についての考えは次です。
社会における善悪の基準は法が裁くことで分かるように社会に善悪が存在するのではなく個々の人間の心・考えの善悪の表れが社会に反映されるとの事と思います。

ヨハネ1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 1:11彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。

社会はイエスなしに存在するものですね。
過去の真実は未来にも現在にも真実である、とが真実の定義になるはずです。
したがって現在もキリスト教国と言われる国でもその社会にはイエスは存在しないのですね。
しかし、クリスチャンはイエスを心のなかに持ちますからイエスが教える(旧約の教えを守りなさいとか。)倫理観(善悪観)を他のクリスチャンと共有する。

この善悪観が個人の行動を規定・規制しその中には神の愛を周りの人に与えるまたは与えようとする人たちがいることと思います。
これを神は神の子とする。
キリスト教とはこれだけのことなんですね。

 
 

2011/06/05 21:14

Commented by Tom さん

>宗教が人間の問題を解決できないといわれるのなら、その多い戦争を起こしている米国の原因は他にあるというのでしょうか?

人間の問題-これを2つに分けてみます。
ひとつは個人の問題、もうひとつは人間社会の問題。

人間社会については神が人間を作ったのだが人間は{イエスを目の前にしても)神を信じなかなった。と聖書にあります。
2千年前の社会も現社会も同じ状況が世界至る所に見られます。
例外としてアーミッシュの人々は200年ほど前の生活をそのままに神の教えとして守っています。
非常に興味深い人たちなのですが、その社会に神が存在しているのかどうかはやはり疑問です。彼らの意思で特殊社会を保っているのですがそれ以外には神の存在をその社会に証明できるものは見られない。

言うまでもなく、国際社会の問題において誰も神様にお祈りして神に解決してもらおうと考える人は誰もいません。
しかし、個人的に神の善悪観を自らの心に持ちその現れ(神の愛の実践)として政治をしようとした人が米大統領にいたのではと密かに思っているのがジミー・カーターです。
ジミー・カーターは素晴らしいクリスチャンと誰もが認めるところですし私も好きな尊敬する人物ですが冷戦時代にニーバーの影響を受けたのかソ連を悪の帝国をみなしていたと思われます。
米大統領としては当然だと思われますが、もし、彼がクリスチャン大統領として神の目に適った仕事をしようとしていたのであれば此処に矛盾を私は見ます。これはあくまでも仮定の話でジミー・カーターを使っただけです。

言いたいことは、神は世界を救う、とのスローガンじみた言葉を、ああそういうもんかと信じる人は実におめでたい人か、クリスチャンなら聖書を読んだことがないか聖書の理解が私と違う人でしょう。

 
 

2011/06/05 21:52

Commented by Tom さん

個人の問題について。
イエスがこの世に来たのは神が人間に与えた肉体の罪から人間を解放するためと書かれてあります。
浄土真宗では悪人の罪は善人の罪より仏の慈悲を受けるとが「悪人正機」に現れていると思われます。
原罪を認識する人はクリスチャンにもそう多くは無く、悪人こそがその罪を悔いた時に神仏の慈悲を受けるとするのは聖書も浄土真宗も同じと思います。

聖書でややこしいのはそれだけでは天国に行けない(神の子と生きながらにされない)としています。
個人の神の愛の実践が天国のゲートをくぐれる切符だとしています。

上記もこれまた比喩の話です。
正直なところ私は死後の世界に天国に行くより先にこの世でどう生きなければならないかを考えます。
その為に私の先祖はどこから来たのか、身の回りに見える自然は誰が作ったのか、自分が今生きているのは与えられた目的があるのか(自分には誰かが生死を与えてくれている。)死後肉体は滅びても精神なる魂はどうなるのか?

 
 

2011/06/05 21:57

Commented by Tom さん

それらの質問に応えているのが聖書です。
しかも各人の質問に聖霊が個々に答えてくれる。

マタイ7:7求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 7:8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 7:9あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 7:10魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 7:11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 7:12だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
7:13狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 7:14命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
7:15にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 7:16あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 7:17そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 7:18良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。 7:19良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。 7:20このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 7:21わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 7:22その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 7:23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

 
 

2011/06/05 22:05

Commented by Tom さん

7:24それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 7:25雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 7:26また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。 7:27雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
7:28イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。 7:29それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。


この箇所を読む度に思い浮かべるのは福島原発の事故です。
福島第一原発群を何故海浜に建てたのか?

>7:27雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」

実に非道い倒れ方を福島第一原発群はしたものです。

 
 

2011/06/14 09:51

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>>キリスト教の限界は解釈の誤りだけでなく翻訳の誤解もあると思いますが、なにしろ一つの言語から世界中に翻訳されているのですから。しかしそれらが主要なキリスト教の限界ではなくて、本来的に現代を救えない教えであるとうのがわたしの考えです。
>
>ネット上で簡単に各国の聖書が読めます。
>とは言っても私が理解できるのは日・英と西語を辞書を引きながら少し。
>英語だけで30ほどの違った聖書があります。
>翻訳の誤解とはその分野でのエキスパートが担当しているはずですからそれが問題になるのは極めてまれなことなはずです、または皆無に近いでしょう。
>
>正直な所、私は英語で聖書を読んできましたから日本語の方が理解に時間がかかりました。
>例えば義人との言葉を正しく理解できる日本人はどれだけいるのだろうと考えます。
>誤訳をすることなく、もっともっと簡単な日本語訳聖書をネット上で読める環境を作ってもらいたいものだと思います。
>そうすることで聖書の誤訳を心配より聖書・キリスト教への間違った先入観を無くすることが出来ると思われます。
>
>


翻訳は何故するのか?当然のことそれは原文が読めない人々のために言語を移し変えて理解できるように訳すわけです。しかしtomさんが指摘されているように理解の筋がいまひとつ足らなくなっている場合が役者の力不足から出てくることもある。また意識的に改竄している場合もあるわけです。

 
 

2011/06/14 09:52

Commented by 広転 さん

実は仏教の場合の異義というのは多くはこの改竄訳から出ているのです。釈尊の教えの経典にはない教義を立てて別の宗派を起こすわけですが、その時に宗派の教義を独自に作るわけです。つまり経典にない教義を立てるとはどういうことかといいますとそれはない筈の経典を一つ二つ勝手に造作(ぞうさく)してしまううやり方があったのです。むかしインドから中国そして日本にと仏典が渡ってきましたがそれをもたらした訳僧が勝手に1巻を10巻に水増して改竄するということがあった。

 
 

2011/06/14 10:08

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>>ちょと考えにくいのですが、これらを区別してもその間に差別を置かない宇宙観が求められるわけです。
>
>宇宙観は私には分かりません。
>しかし、私の中の善悪についての考えは次です。
>社会における善悪の基準は法が裁くことで分かるように社会に善悪が存在するのではなく個々の人間の心・考えの善悪の表れが社会に反映されるとの事と思います。
>
>ヨハネ1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 1:11彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
>
>社会はイエスなしに存在するものですね。
>過去の真実は未来にも現在にも真実である、とが真実の定義になるはずです。
>したがって現在もキリスト教国と言われる国でもその社会にはイエスは存在しないのですね。
>しかし、クリスチャンはイエスを心のなかに持ちますからイエスが教える(旧約の教えを守りなさいとか。)倫理観(善悪観)を他のクリスチャンと共有する。
>
>この善悪観が個人の行動を規定・規制しその中には神の愛を周りの人に与えるまたは与えようとする人たちがいることと思います。
>これを神は神の子とする。
>キリスト教とはこれだけのことなんですね。




個人は社会的存在でもあるわけで社会や環境世界の変革は私には多少なりとも個人の問題とは切り離せないものとしてあります。そのために政治的なまた経済的な影響が直接的にもまた個人を通してでも存在するとキリスト教も含めてですが、そのように宗教の力を考えているのです。それはつまり宇宙的な力動性にも関係しているということです。けっして個人だけの問題で終わってないということです。



 
 

2011/06/14 10:35

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>個人の問題について。
>イエスがこの世に来たのは神が人間に与えた肉体の罪から人間を解放するためと書かれてあります。
>浄土真宗では悪人の罪は善人の罪より仏の慈悲を受けるとが「悪人正機」に現れていると思われます。
>原罪を認識する人はクリスチャンにもそう多くは無く、悪人こそがその罪を悔いた時に神仏の慈悲を受けるとするのは聖書も浄土真宗も同じと思います。
>
>聖書でややこしいのはそれだけでは天国に行けない(神の子と生きながらにされない)としています。
>個人の神の愛の実践が天国のゲートをくぐれる切符だとしています。
>
>上記もこれまた比喩の話です。
>正直なところ私は死後の世界に天国に行くより先にこの世でどう生きなければならないかを考えます。
>その為に私の先祖はどこから来たのか、身の回りに見える自然は誰が作ったのか、自分が今生きているのは与えられた目的があるのか(自分には誰かが生死を与えてくれている。)死後肉体は滅びても精神なる魂はどうなるのか?



来世とかあの世、または遠い別世界に天国や地獄があるとする宗教は実に多いのですがその代表的なのが念仏の西方十万憶土というのとキリスト教の天国であると思えます。どちらもこの世に天国がないのです。そういう宗教はこの世を大事にしない。人間はあの世を準備する手段として生きるわけです。仏教の中でもこの世を穢土(えど)といって嫌う宗派があるのはこのためです。しかし大乗ではこの世は仮のものでもなく肉体は精神の仮の宿などではないと教えるわけです。




 
 

2011/06/14 10:36

Commented by 広転 さん

肉体と精神は一体不離の関係で滅びることはないという世界観があるのです。仏教ではこれをつまり、成・住・壊・空(じょう・じゅう・え・くう)という4つの変化する姿で説明するのです。

前にお話ししました「無から有が生じるのか?」ということですが。無からは有は生まれないのですから、創造主が始めであるというのはその創造主がどこから生まれ出たのかを説明できないのです。そういう限界が二元論の世界観には付きまとうのです。だからtomさんいうような初めにいった者の勝ちという論議がでてくるのです。しかし、それには証明書なり誰かの証言が必要なのです。それを提出するのは不可能だということです。ですから無からの創造はあり得ないということになる。そうするとキリスト教の神は初めでもなく、光は闇の前には存在しないことになり矛盾がでてくる。いくら信じなさいといってもあるいは信じるものは救われるといってもまやかしは解決しないのです。やはりその前に何か有なるものがあったと考えてしまうのです。無理に信じろというのがおかしいのです。

実は、仏教でいうところの、さきほどの成・住・壊・空(じょう・じゅう・え・くう)観ですが、ここでの「空」という概念が、有無の二元論では理解のできない、「無から有がどうして出てくるのか?」の解決を提示しているわけです。

 
 

2011/06/14 10:44

Commented by 広転 さん

キリスト教や浄土真宗ではこの空の観念を排除して他土に変えてしまっている。此岸と彼岸、此土と他土を分離する。そこにいくには悪人だけが救われるとか、罪あるものは救われるとか限界を設けるのです。つまり救済論ですがこれに限界がある宗教である証明ともなっている。全人類の宗教ではない極限られた特徴を宿す者が救われるというが本当はそれもわからない教えなのです。なにしろこの現実世界ではないくあの世で救ってあげようというものだからです。

 
 

2011/06/14 10:51

Commented by Tom さん

To 広転さん

>また意識的に改竄している場合もあるわけです。

そのような聖書はメインのキリスト教とからは異教とされるようです。

 
 

2011/06/14 11:01

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>それらの質問に応えているのが聖書です。
>しかも各人の質問に聖霊が個々に答えてくれる。
>
>マタイ7:7求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 7:8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 7:9あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 7:10魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 7:11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 7:12だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
>7:13狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 7:14命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
>7:15にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 7:16あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 7:17そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 7:18良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。

 
 

2011/06/14 11:01

Commented by 広転 さん

7:19良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。 7:20このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 7:21わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 7:22その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 7:23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
>

 
 

2011/06/14 11:03

Commented by Tom さん

To 広転さん
>実は仏教の場合の異義というのは多くはこの改竄訳から出ているのです。釈尊の教えの経典にはない教義を立てて別の宗派を起こすわけですが、その時に宗派の教義を独自に作るわけです。つまり経典にない教義を立てるとはどういうことかといいますとそれはない筈の経典を一つ二つ勝手に造作(ぞうさく)してしまううやり方があったのです。むかしインドから中国そして日本にと仏典が渡ってきましたがそれをもたらした訳僧が勝手に1巻を10巻に水増して改竄するということがあった。

自力本願の仏教には以前から人間の傲慢さを感じてました。
公転さんのお話を読んで仏教はなんなのか余計わからなくなりました。

 
 

2011/06/14 11:04

Commented by 広転 さん

以上のtomさんの引用ですが、キリスト教徒は実に人間として最悪の姿をとって表現されなければ神の子になれないし救われないということは非常に人間蔑視の宗教観がそこにある。わたしは神に救われるということは全く非人間化されることだとみるわけです。

tomさんが引用されている通りで人間は常に神の前の従属物で主体ではないのです。探す者であり、狭い門をくぐる者として信者は現れる。人間に信者と狼がいるとかいって分離してみせる非常に人間性に懐疑深い宗教なわけです。

その理由はそうしないと誰でも、つまり狼であろうがトラであろうが熊であろうが誰でも彼でもは救えない力のない宗教だからです。

目の悪い者だけ救うとか、信仰のない者は受け付けないとかそういう制限を設けないと救うことができないわけです。だからはじめからこれらのキリスト教や念仏宗では誰も救えないといったほうが正解なのです。それどころか人々はこれらを徘徊することで誤れる宗教に翻弄されることにもなるわけです。

 
 

2011/06/14 11:09

Commented by 広転 さん

自力本願とか他力本願と念仏では盛んにいいますが、そんなことにこだわる必要もないと思います。そういう二元論から見る見方がそもそも仏教ではないのです。

 
 

2011/06/14 11:17

Commented by Tom さん

To 広転さん

>個人は社会的存在でもあるわけで社会や環境世界の変革は私には多少なりとも個人の問題とは切り離せないものとしてあります。そのために政治的なまた経済的な影響が直接的にもまた個人を通してでも存在するとキリスト教も含めてですが、そのように宗教の力を考えているのです。

「隣人を愛せよ」はキリスト教との最終的な信仰の表意でこれを神の名のもとにすることでこの世に生きながら神の子とされる、とが私の聖書理解です。
個→隣人=社会への影響をイエスも話しているのだと思います

>それはつまり宇宙的な力動性にも関係しているということです。けっして個人だけの問題で終わってないということです。

社会から宇宙への影響は私の理解の外です。

 
 

2011/06/14 11:31

Commented by Tom さん

To 広転さん

>来世とかあの世、または遠い別世界に天国や地獄があるとする宗教は実に多いのですがその代表的なのが念仏の西方十万憶土というのとキリスト教の天国であると思えます。
どちらもこの世に天国がないのです。そういう宗教はこの世を大事にしない。人間はあの世を準備する手段として生きるわけです。仏教の中でもこの世を穢土(えど)といって嫌う宗派があるのはこのためです。

このよに天国はないとキリスト教は教えていません。
これに反論されるのであれば聖書のどの箇所にこの世に天国はないと書いてあると示してくだされば議論はおしまいです。
私は何度も言いましたが聖書にかかれてあることがキリスト教で聖書の言葉をいかに理解し信じるかがキリスト教徒のつとめです。
逆に言えばイエスの言葉を論じないでキリスト教を論じるのは時間潰し以外の何ものでもないでしょう。

宜しいですか?何故イエスは肉体を十字架にかけ復活したのかその意味がわかりますか?
わかったらこの世に天国はないとキリスト教は考えるとは口が裂けてもいえないことなんですよね。


 
 

2011/06/14 21:30

Commented by Tom さん

To 広転さん

>しかし、それには証明書なり誰かの証言が必要なのです。それを提出するのは不可能だということです。ですから無からの創造はあり得ないということになる。そうするとキリスト教の神は初めでもなく、光は闇の前には存在しないことになり矛盾がでてくる。いくら信じなさいといってもあるいは信じるものは救われるといってもまやかしは解決しないのです。やはりその前に何か有なるものがあったと考えてしまうのです。

無の前にあったものを「在るもの」とするのがユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教ですね。

>やはりその前に何か有なるものがあったと考えてしまうのです。

その通りのことが聖書にかかれております。
公転さんには、聖書についての考えを構築される前に聖書のすべてを読むのは時間は掛かりますが、新約のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4福音書だけを先ず読んでみてくださるのをお勧めします。
恐らく公転さんは聖書をお読みになってないと思われます。
一度読んだらまた読み返してみてください、2度目に読まれたらご自分で持っていた印象・イメージが変わって来ることと思います。
聖書とはそうした言葉がぎっしりと詰まっています。
何故なら「読んですぐ分かるように書かれていない」とイエス自身が語っていたと思います。
もし聖書のどの箇所にあるのかに興味を持たれましたらあとで調べてみます。

読後感は同じ人が読んでも時が経ったり、環境が変わっただけ(経験の差)ですっかり変わってくるとが私の経験からです。
ですから、人によっては聖書について全く別な考え・印象を持ってもおかしくはないとおもいます。

 
 

2011/06/14 21:44

Commented by Tom さん

>無理に信じろというのがおかしいのです。

人種国籍によらない実に多くの人々が信じてます。
無から有を作った(これは我々はどこから来たのかの質問に答えたものです。)「かみ-と日本語で呼ばれるもの」を信じるのは世界の圧倒多数です。

私が此処に今現在居る実態から考えを出発し、私の先祖は新人類の先祖となり原人類は猿人に繋がり猿人の先祖は哺乳類の先祖に繋がりさらに生物の先祖はスパームやエッグみたいなものと考えます。
実はこれは私の伯父の言葉でして、生物はその再生時に過去の生育過程を繰り返すのだそうです。
これはCGがスクリーンに出来るまでの過程に似ています。
初めはスクリーンには何もなかったのですから。

進化論で旧約の創世記は嘘ではないかと考えたり、それで進化論を学校で教えてはならないとする人々はアインシュタインが言う所の「common man」だと思います。
common manの意味は既成概念に容易に囚われる「愚か者」だと私は理解しております。
私はアインシュタインの理論を説明する人達の講義を理解する人々の足元にも及ばない「愚か者」ですがそのアインシュタインですらスパームやエッグを作った「在るもの」の足元にも及びません。
又、「生」に何が必要であるか知っている科学者を以てしても「生」そのものを作れるかどうかとなると私は不可能であろうと考えます。
それが可能となったら私は神についての考えを変える時だと思います。

 
 

2011/06/14 21:52

Commented by Tom さん

神そのものについて私の考えは実に流動的で一神教の神の存在が私の疑問に答えることが出来るから受け入れるだけの話で、「先に言った者勝ち」とはそういう意味なのです。

この世を作った神はこの世を動かす原理になり、例えば台風などの自然現象は神の意志では起こりません。
従って大地震で人が多数亡くなったとしてもそれは神の意志・責任ではないと当たり前に考えるのですが、米国でも神には慈悲は無いのかと問う人が多くいるのは私には心のどこかで驚愕に値するものです。恐らくアインシュタインの影響かもしれません。

 
 

2011/06/14 22:16

Commented by Tom さん

>実は、仏教でいうところの、さきほどの成・住・壊・空(じょう・じゅう・え・くう)観ですが、ここでの「空」という概念が、有無の二元論では理解のできない、「無から有がどうして出てくるのか?」の解決を提示しているわけです。

不遜な言い方ですが、私は高校時から無神論者の伯父(微生物学者)からの影響を受け、多分伯父は反面教師と後になったかもしれませんが、無から有が出来るのは神の仕業(自然の力)-例えば発酵と腐敗の違いに気がついた人間は多くの食べ物を作ったのですが、又発酵菌の組み換えなどが出来るようになったのでしょうが発酵菌そのものを作ることはできないと思います。ーが我々の住む世界と宇宙に原理として残されていると思います。
アインシュタインの言葉からの影響が私のこの言葉に見られます。

私には仏教の尊い教え(「無から有がどうして出てくるのか?」の解決を提示)無しに当たり前に理解できます。
ですから仏教がこのようなことについて述べるのであれば私には読む価値はありません。
私の不遜であると断ったのはそういうわけでした。
そうはいってもこれは公転さんが教えてくれたもので即それが仏教の教えだと理解するのではありませんことも付け加えておきます。

 
 

2011/06/14 22:36

Commented by Tom さん

To 広転さん
>キリスト教や浄土真宗ではこの空の観念を排除して他土に変えてしまっている。此岸と彼岸、此土と他土を分離する。そこにいくには悪人だけが救われるとか、罪あるものは救われるとか限界を設けるのです。つまり救済論ですがこれに限界がある宗教である証明ともなっている。全人類の宗教ではない極限られた特徴を宿す者が救われるというが本当はそれもわからない教えなのです。なにしろこの現実世界ではないくあの世で救ってあげようというものだからです。

このお考えは失礼ながら公転さんのお考え違いであろうと、優しく申し上げます。
何度も申し上げますが、聖書は一神教で神のみ心を我々に伝えようとしているものです。
神とは全人類を愛するから人間もそうしなさいと聖書にあります。
イエスを神と信じて、神の力で人間の罪の穢が清められると信じて、この世で隣人に愛を持って接しなさい、そうすればあなた方は神の子と神から認められあなた方は「生」を持ったまま「神の国=天国」に生きることが出来ます。-聖書はこの一点なのです。
ですからイエス=キリスト教と言われるのですがキリスト教はこの世の覇道ではなく個の罪が救われるとの個人の心の幸せを教えているのですね。
その前提として人間は創造主の目から見たら実に不完全な者であり、それは我々の責任ではなく神が人間にこの世で天国に住めるチャンスとしてイエスを信じ、聖書にある通りのことをしなさいと私には教えてくれます。

上記のような信仰は米国では多く見られますし、又逆に「イエスを信じればそれであなたは救われる。」として上記を間違った理解と否定されたことは驚くほど多くありました。

ですから、公典さんが何度も何度もご自説を繰り返すことは不思議でも何でもございません。

 
 

2011/06/14 22:58

Commented by Tom さん

To 広転さん
>以上のtomさんの引用ですが、キリスト教徒は実に人間として最悪の姿をとって表現されなければ神の子になれないし救われないということは非常に人間蔑視の宗教観がそこにある。わたしは神に救われるということは全く非人間化されることだとみるわけです。
>
>tomさんが引用されている通りで人間は常に神の前の従属物で主体ではないのです。探す者であり、狭い門をくぐる者として信者は現れる。人間に信者と狼がいるとかいって分離してみせる非常に人間性に懐疑深い宗教なわけです。
>
>その理由はそうしないと誰でも、つまり狼であろうがトラであろうが熊であろうが誰でも彼でもは救えない力のない宗教だからです。
>
>目の悪い者だけ救うとか、信仰のない者は受け付けないとかそういう制限を設けないと救うことができないわけです。だからはじめからこれらのキリスト教や念仏宗では誰も救えないといったほうが正解なのです。それどころか人々はこれらを徘徊することで誤れる宗教に翻弄されることにもなるわけです。

もし私が聖書を読もうと何かの力に導かれていなかったら上のお考えにすべて賛成していたかもしれません。
現実は幸運にもそうではない世界に導かれました。

私を現在の私の世界に導いてくれた方々。
新渡戸稲造
母方の祖父と彼の家族。
伯父
親鸞
唯円
私を米国に招いてくれたスポンサー
N.J.の日本人牧師
その他多くの牧師
聖霊
イエス

上記の方々(が持つ力)が無かったらどこまでも傲慢な(悪人な)私は聖書の教えに従おうとしなかったでしょう(私が従っているとのつもりではありません。恐らく自我の煩悩をイエスのみ心より先に選んでいるのが自分でも分かりますから、そうしたときは何らかの大きな重みを感じます。「アダムの創造」の手の代わりに足が私の頭上に落ちてきました。

宗教とは何の関わりもないことです。
しかし、信心の問題でしょう。

 
 

2011/06/17 05:55

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>To 広転さん
>
>>個人は社会的存在でもあるわけで社会や環境世界の変革は私には多少なりとも個人の問題とは切り離せないものとしてあります。そのために政治的なまた経済的な影響が直接的にもまた個人を通してでも存在するとキリスト教も含めてですが、そのように宗教の力を考えているのです。
>
>「隣人を愛せよ」はキリスト教との最終的な信仰の表意でこれを神の名のもとにすることでこの世に生きながら神の子とされる、とが私の聖書理解です。
>個→隣人=社会への影響をイエスも話しているのだと思います
>
>>それはつまり宇宙的な力動性にも関係しているということです。けっして個人だけの問題で終わってないということです。
>
>社会から宇宙への影響は私の理解の外です。
>


キリスト教徒のいう隣人愛というのは、ようするに信者同士の愛ではないですか、異教徒やイスラム教徒を愛すというのならアフガニスタンにもイラクで殺害をしないでしょう。キリスト教徒が本当に隣人を愛するというのなら黒人を奴隷になどしなかったはずです。そういう小さな偏狭な愛は仏教でいう慈悲とは違いますしましてや大乗仏教での慈悲観ともちがいます。慈悲といっても法然や親鸞のそれは悲母の愛に近いもので一人の人も救えないのです。

特に法華誹謗をしている者は救えないこれを除くとして、捨て子を認めたのです。総てを救う力がないからです。これは念仏の誓願にあるのです。だから、キリスト教徒は隣人愛などといっていて、全人類愛とはいわないのです。

 
 

2011/06/17 06:09

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>To 広転さん
>
>>来世とかあの世、または遠い別世界に天国や地獄があるとする宗教は実に多いのですがその代表的なのが念仏の西方十万憶土というのとキリスト教の天国であると思えます。
>どちらもこの世に天国がないのです。そういう宗教はこの世を大事にしない。人間はあの世を準備する手段として生きるわけです。仏教の中でもこの世を穢土(えど)といって嫌う宗派があるのはこのためです。
>
>このよに天国はないとキリスト教は教えていません。
>これに反論されるのであれば聖書のどの箇所にこの世に天国はないと書いてあると示してくだされば議論はおしまいです。
>私は何度も言いましたが聖書にかかれてあることがキリスト教で聖書の言葉をいかに理解し信じるかがキリスト教徒のつとめです。
>逆に言えばイエスの言葉を論じないでキリスト教を論じるのは時間潰し以外の何ものでもないでしょう。
>
>宜しいですか?何故イエスは肉体を十字架にかけ復活したのかその意味がわかりますか?
>わかったらこの世に天国はないとキリスト教は考えるとは口が裂けてもいえないことなんですよね。
>
>
>

キリスト教徒に天国がないというのなら、それは天国といわずに地獄というのだろうか。天国と書く必要がないわけです。総ては地上に天国も地獄もあるのだと思いますが、何故キリスト教や念仏ではこの世ではなくしてあの世の彼岸での往生や天国に往くことを願うのでしょうか。わたしにはそのように見えるのです。それともキリスト教徒には天国という概念はこの世意外にはあり得ないとでもいわれるのでしょうか。是非知りたいところです。

キリストが磔刑死してそれが生き返ったということを信じていることがどうも判らない。アメリカですから電気椅子でしょうがそうなった人が生き返るはずがないのです。無理に信じるから判らなくなってしまうのだと思います。いくら聖書に書いてあっても納得がいかなければ盲信に頼るしかなくなるわけです。無理に信仰はする必要がないのです。



 
 

2011/06/17 06:18

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>To 広転さん
>
>>しかし、それには証明書なり誰かの証言が必要なのです。それを提出するのは不可能だということです。ですから無からの創造はあり得ないということになる。そうするとキリスト教の神は初めでもなく、光は闇の前には存在しないことになり矛盾がでてくる。いくら信じなさいといってもあるいは信じるものは救われるといってもまやかしは解決しないのです。やはりその前に何か有なるものがあったと考えてしまうのです。
>
>無の前にあったものを「在るもの」とするのがユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教ですね。
>
>>やはりその前に何か有なるものがあったと考えてしまうのです。
>
>その通りのことが聖書にかかれております。
>公転さんには、聖書についての考えを構築される前に聖書のすべてを読むのは時間は掛かりますが、新約のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4福音書だけを先ず読んでみてくださるのをお勧めします。
>恐らく公転さんは聖書をお読みになってないと思われます。
>一度読んだらまた読み返してみてください、2度目に読まれたらご自分で持っていた印象・イメージが変わって来ることと思います。
>聖書とはそうした言葉がぎっしりと詰まっています。
>何故なら「読んですぐ分かるように書かれていない」とイエス自身が語っていたと思います。
>もし聖書のどの箇所にあるのかに興味を持たれましたらあとで調べてみます。
>
>読後感は同じ人が読んでも時が経ったり、環境が変わっただけ(経験の差)ですっかり変わってくるとが私の経験からです。
>ですから、人によっては聖書について全く別な考え・印象を持ってもおかしくはないとおもいます。
>
>

tomさんのいわれる最後の方に私は賛成です。宗教は個人のああ思うこう思うの感想や毎日変わる感情で判断してはならないと考えてます。宗教には個人のかかわりの次元もありますが、それ以上にそのような各自様々な人の心身の変化を超えて普遍的な教説をもっている必要があります。それらは全く別な次元のもので一緒にして論じることは直線的にはできません。






 
 

2011/06/17 06:25

Commented by 広転 さん

先ず私がどう感じるかも大事ですが、それ以前にその宗教のもつ客観性を問う必要があります。よく聖書は素晴らしい何度読んでも次から次へと新しい発見があるし組めども尽きない知恵の宝庫だなどという話しを聞くと私などは、ひどくがっかりするのです。

これはまったく人を馬鹿にした教えだということです。子供が読もうが大人が読もうが教えとして等しく、また貧乏人が読もうが学者が読もうが盲目の人が話しを聞いて理解しようがその間に等しく教えの高低浅深に差異がないとうものでなければならない。ある人には真理だが別の人には真理でないとか、悪人だなければ救われないとか信じない者はだめだとかいうのでは全人類を平等に扱う宗教たりえないのです。

 
 

2011/06/17 06:38

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>To 広転さん
>
>>しかし、それには証明書なり誰かの証言が必要なのです。それを提出するのは不可能だということです。ですから無からの創造はあり得ないということになる。そうするとキリスト教の神は初めでもなく、光は闇の前には存在しないことになり矛盾がでてくる。いくら信じなさいといってもあるいは信じるものは救われるといってもまやかしは解決しないのです。やはりその前に何か有なるものがあったと考えてしまうのです。
>
>無の前にあったものを「在るもの」とするのがユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教ですね。
>
>>やはりその前に何か有なるものがあったと考えてしまうのです。
>
>その通りのことが聖書にかかれております。
>公転さんには、聖書についての考えを構築される前に聖書のすべてを読むのは時間は掛かりますが、新約のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4福音書だけを先ず読んでみてくださるのをお勧めします。
>恐らく公転さんは聖書をお読みになってないと思われます。
>一度読んだらまた読み返してみてください、2度目に読まれたらご自分で持っていた印象・イメージが変わって来ることと思います。
>聖書とはそうした言葉がぎっしりと詰まっています。
>何故なら「読んですぐ分かるように書かれていない」とイエス自身が語っていたと思います。
>もし聖書のどの箇所にあるのかに興味を持たれましたらあとで調べてみます。
>
>読後感は同じ人が読んでも時が経ったり、環境が変わっただけ(経験の差)ですっかり変わってくるとが私の経験からです。
>ですから、人によっては聖書について全く別な考え・印象を持ってもおかしくはないとおもいます。
>
>


>>やはりその前に何か有なるものがあったと考えてしまうのです


tomさん、上の引用は私の意見ではないのですよ、これはキリスト教徒の方がこのように考えるのではないか?という私の想像としてかいたのです。地の文を読めばご理解いただけると思います。

したがってtomさんが、この引用のあとでご指摘されているように、まさしく聖書にこの考えと同じ話しがあるとされて、説明されているのはそういうことからなのでしょう。



 
 

2011/06/17 06:42

Commented by 広転 さん

その答えとしてtomさんはここで、さっそく以下のようにいわれているわけです。

>無の前にあったものを「在るもの」とするのがユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教ですね。


私の意見では、そのようには全く考えてはいないということです。

それならばその神の前には何があったのでしょうか。これが「在るもの」で初めだとでもいうのでしょうか。そういっただけではこれは論理の世界では通用しないものだと思います。その論理からもし正当化できるとすれば、tomさんが以前にいっておられた、言いだしっぺの勝ちとうおかしな理論だけですね。

 
 

2011/06/17 06:51

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>>無理に信じろというのがおかしいのです。
>
>人種国籍によらない実に多くの人々が信じてます。
>無から有を作った(これは我々はどこから来たのかの質問に答えたものです。)「かみ-と日本語で呼ばれるもの」を信じるのは世界の圧倒多数です。
>
>私が此処に今現在居る実態から考えを出発し、私の先祖は新人類の先祖となり原人類は猿人に繋がり猿人の先祖は哺乳類の先祖に繋がりさらに生物の先祖はスパームやエッグみたいなものと考えます。
>実はこれは私の伯父の言葉でして、生物はその再生時に過去の生育過程を繰り返すのだそうです。
>これはCGがスクリーンに出来るまでの過程に似ています。
>初めはスクリーンには何もなかったのですから。
>
>進化論で旧約の創世記は嘘ではないかと考えたり、それで進化論を学校で教えてはならないとする人々はアインシュタインが言う所の「common man」だと思います。
>common manの意味は既成概念に容易に囚われる「愚か者」だと私は理解しております。
>私はアインシュタインの理論を説明する人達の講義を理解する人々の足元にも及ばない「愚か者」ですがそのアインシュタインですらスパームやエッグを作った「在るもの」の足元にも及びません。
>又、「生」に何が必要であるか知っている科学者を以てしても「生」そのものを作れるかどうかとなると私は不可能であろうと考えます。
>それが可能となったら私は神についての考えを変える時だと思います。


tomさん、私は猿人とかアインシュタインとか愚か者とか神とかに差異を立てる考えを疑問視しているのです。tomさん自身も「生」の創造という観点からそのヒエラルヒーを転覆させようとされている。しかし私は無理にそうする必要はないのだと考えるのです。なにも逆にしたところで何かが変わるわけではないし実際にはそんなことでは変えることはできない。神が特別にえらい存在でも何かを創造源でもないのです。勿論のこと猿がはじまりではないし、アインシュタインさんが作ったものでもないのです。どうしてそのようにしか考えられないのかが問題なのです。つまり誰かが始まりの「生」を造ったとどうしてもいいたがるのかということです。


 
 

2011/06/17 07:12

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>To 広転さん
>>キリスト教や浄土真宗ではこの空の観念を排除して他土に変えてしまっている。此岸と彼岸、此土と他土を分離する。そこにいくには悪人だけが救われるとか、罪あるものは救われるとか限界を設けるのです。つまり救済論ですがこれに限界がある宗教である証明ともなっている。全人類の宗教ではない極限られた特徴を宿す者が救われるというが本当はそれもわからない教えなのです。なにしろこの現実世界ではないくあの世で救ってあげようというものだからです。
>
>このお考えは失礼ながら公転さんのお考え違いであろうと、優しく申し上げます。
>何度も申し上げますが、聖書は一神教で神のみ心を我々に伝えようとしているものです。
>神とは全人類を愛するから人間もそうしなさいと聖書にあります。
>イエスを神と信じて、神の力で人間の罪の穢が清められると信じて、この世で隣人に愛を持って接しなさい、そうすればあなた方は神の子と神から認められあなた方は「生」を持ったまま「神の国=天国」に生きることが出来ます。-聖書はこの一点なのです。
>ですからイエス=キリスト教と言われるのですがキリスト教はこの世の覇道ではなく個の罪が救われるとの個人の心の幸せを教えているのですね。
>その前提として人間は創造主の目から見たら実に不完全な者であり、それは我々の責任ではなく神が人間にこの世で天国に住めるチャンスとしてイエスを信じ、聖書にある通りのことをしなさいと私には教えてくれます。
>
>上記のような信仰は米国では多く見られますし、又逆に「イエスを信じればそれであなたは救われる。」として上記を間違った理解と否定されたことは驚くほど多くありました。
>
>ですから、公典さんが何度も何度もご自説を繰り返すことは不思議でも何でもございません。
>


tomさんは、ここではキリスト教の本質を書かれているのですね。つまり天国で生きることのできる条件が指摘されてあるわけです。

 
 

2011/06/17 07:12

Commented by 広転 さん


>イエスを神と信じて、神の力で人間の罪の穢が清められると信じて、この世で隣人に愛を持って接しなさい、そうすればあなた方は神の子と神から認められあなた方は「生」を持ったまま「神の国=天国」に生きることが出来ます。-聖書はこの一点なのです。



なんでもかんでも信じれば救われる天国に往けるというのは嘘です。tomさんがいわれたように聖書は何度も読むたびに感慨が異なる印象が変わるというのなら、教えが一様でない読むものによって様々に変化(へんげ)する不確実な文章なのです。またそのような書かれ方をしている宗教だということです。だから所詮は聖書は随他意(ずいたい)の教えだというのです。


読み手の数だけ教えが出てきて、聖書を読んでも一つの神の教えが毎回毎回その度ごとにまた人毎に変わり、同じ人でも昨日と今日でも理解が不確かで固定しないということです。だから救いがないのです。

キリスト教が随他意の教えだというのは所詮は神の教えを読んでいるようだが、結局は教えがしっかりしてないために、自分の変化(へんげ)する心を読んでしかいないという意味なのです。

 
 

2011/06/17 07:29

Commented by 広転 さん

その証拠となる聖書のエッセンスをtomさんが提出されたのは良かったと思います。

>イエスを神と信じて、神の力で人間の罪の穢が清められると信じて、この世で隣人に愛を持って接しなさい、そうすればあなた方は神の子と神から認められあなた方は「生」を持ったまま「神の国=天国」に生きることが出来ます。-聖書はこの一点なのです。


私が心配するのはこういうことを真剣に信じていると人間は精神のない神の僕に成ってしまうだろうということです。なんでも聖書に書いてあるとまではいわなくともそういうふうに考える人間になるのではないでしょうか。それが恐ろしく感じられえます。

神の国は我々には必要ないし天国も無用なのです。まずそこから考え直す必要があります。なにか特殊な世界を作る必要はないのです。神の国などという天国などはまったく無用なのです。キリスト教はそういうものを仮想するからまがいものの現実観が蔓延(はびこ)る原因になってしまうのです。



 
 

2011/06/17 07:40

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>To 広転さん
>>キリスト教や浄土真宗ではこの空の観念を排除して他土に変えてしまっている。此岸と彼岸、此土と他土を分離する。そこにいくには悪人だけが救われるとか、罪あるものは救われるとか限界を設けるのです。つまり救済論ですがこれに限界がある宗教である証明ともなっている。全人類の宗教ではない極限られた特徴を宿す者が救われるというが本当はそれもわからない教えなのです。なにしろこの現実世界ではないくあの世で救ってあげようというものだからです。
>
>このお考えは失礼ながら公転さんのお考え違いであろうと、優しく申し上げます。
>何度も申し上げますが、聖書は一神教で神のみ心を我々に伝えようとしているものです。
>神とは全人類を愛するから人間もそうしなさいと聖書にあります。
>イエスを神と信じて、神の力で人間の罪の穢が清められると信じて、この世で隣人に愛を持って接しなさい、そうすればあなた方は神の子と神から認められあなた方は「生」を持ったまま「神の国=天国」に生きることが出来ます。-聖書はこの一点なのです。
>ですからイエス=キリスト教と言われるのですがキリスト教はこの世の覇道ではなく個の罪が救われるとの個人の心の幸せを教えているのですね。
>その前提として人間は創造主の目から見たら実に不完全な者であり、それは我々の責任ではなく神が人間にこの世で天国に住めるチャンスとしてイエスを信じ、聖書にある通りのことをしなさいと私には教えてくれます。
>
>上記のような信仰は米国では多く見られますし、又逆に「イエスを信じればそれであなたは救われる。」として上記を間違った理解と否定されたことは驚くほど多くありました。
>
>ですから、公典さんが何度も何度もご自説を繰り返すことは不思議でも何でもございません。
>


tomさんのいわれているキリスト教の救済ですが、やはり問題は神が人間を救うという誤った救済論にある。そうではなくて人間がキリスト教なりの神を救わないといけないのです。tomさんがご指摘の通り余りにもイエスとか神は人間を馬鹿にしている。この人間蔑視の世界観が人間を不幸にしているともいえるのです。これも多くの人がいっているのかもしれませんが、それはあまりにも重大なキリスト教の悪罪だからでしょう。

 
 

2011/06/17 08:07

Commented by 広転 さん

To Tomさん
>神そのものについて私の考えは実に流動的で一神教の神の存在が私の疑問に答えることが出来るから受け入れるだけの話で、「先に言った者勝ち」とはそういう意味なのです。
>
>この世を作った神はこの世を動かす原理になり、例えば台風などの自然現象は神の意志では起こりません。
>従って大地震で人が多数亡くなったとしてもそれは神の意志・責任ではないと当たり前に考えるのですが、米国でも神には慈悲は無いのかと問う人が多くいるのは私には心のどこかで驚愕に値するものです。恐らくアインシュタインの影響かもしれません。



ここは短い文章ですが、tomさんの信仰の告白の箇所なのでしょうか?・・・

わたしは前から気になっていましたが、この「先に言った者勝ち」というのは誰がいったのか?とうことです。聖書に書かれてある神の言葉ということなのでしょうか、そうすると「先に言った者」のその言葉を聞いた者がいるとうことになる。いわゆる証言者が誰かいるのですね。また先に言った者が一番最初であるという年代記はいつ頃なのか?それが一番最初であるという証拠は何かあるのかという疑問がでてくる。じつはこの疑問は私は全然これまで考えてなどいなかったものなのですが、tomさんに一歩従ってつまり随他意的にいえばどうなるのか?と考えた次第での疑問なわけです。

私自身はtomさんが書かれている、上掲文の最後の6行での矛盾の驚愕のご指摘に興味が惹かれます。

tomさんのこの疑問は当然ですが、人と神と自然の関係を同等に捉えてそれらの間に創造者と被造物との規定を作らない思想ならばすっきりと疑問が解決すると私は思っています。

 
 

2011/06/17 09:45

Commented by Tom さん

>キリスト教徒のいう隣人愛というのは、ようするに信者同士の愛ではないですか、異教徒やイスラム教徒を愛すというのならアフガニスタンにもイラクで殺害をしないでしょう。

真のキリスト教徒は聖書の言葉(=神のみ心)に従うもので同類のものだけを愛するのは神のみ心ではない、神はすべての人間を愛するからあなたもそうしなさい、と聖書にあります。
この部分は非常に意味深く言葉通りだけで解釈するものではないと思いますが敵を愛せよとの教えをキリスト教徒は既に「正義の戦争」を言い出してるそうですから、人間とは如何に自分勝手なものかが分かります。古森さんも2009年のブログにオバマの正義の戦争を支持表明してますから彼らも真のキリスト教徒の考えからは身勝手な意見を持っているとなります。

>キリスト教徒が本当に隣人を愛するというのなら黒人を奴隷になどしなかったはずです。

奴隷制どころか、インディアンを皆殺しにし土地を彼らから取り上げる事はしなかったと思います。
又、真のキリスト教徒であればキリスト教の宣教師が中国から追い出されたからと言ってアヘンを中国に売り戦争をふっかけるようなことはしなかったはずです。
今の米国がそれに近いことをしているのは「ニーバーの祈り」が軍人、政治家の間に受け入れられていることで分かるように「身勝手さ」がイエスの教えに先行しているからです。
この指摘をしているのがキリスト教少数派のクエーカーです。
キリスト教徒の愚行を見てそれがキリスト教の教えとするのはキリスト教徒の愚行と全く同じものでしょう。

>そういう小さな偏狭な愛は仏教でいう慈悲とは違いますしましてや大乗仏教での慈悲観ともちがいます。慈悲といっても法然や親鸞のそれは悲母の愛に近いもので一人の人も救えないのです。

救えるか救えないかは個人の信仰の問題で他人がとやかくいうものではないと思いますが如何でしょうか?

>特に法華誹謗をしている者は救えないこれを除くとして、捨て子を認めたのです。総てを救う力がないからです。これは念仏の誓願にあるのです。だから、キリスト教徒は隣人愛などといっていて、全人類愛とはいわないのです。

果て?
イエスは全ての人間を愛すると聖書で言っているのにこの言は僭越と受け取れます。
彼我が分からぬとはこの事ではないでしょうか?
マジです。

 
 

2011/06/17 10:17

Commented by Tom さん

>キリスト教徒に天国がないというのなら、それは天国といわずに地獄というのだろうか。

この意味は全く良く分かりません。
私の理解はイエスは人間の罪を取り除くために来たのであるなのですがその意味がお分かりでしょうか?
よくご理解されてないようですから再度言いますが旧約で人間を罪深いものとしただけでは人間に救いがない、その救いのために来たのがイエスであると新約は言っているのであって私が言うのではありません。
私の言葉に躓いても聖書の理解には何の役にも立たないと申し上げておきます。
私の聖書理解では光のなかに生きない人間は地獄に既に落ちているのです。
それが真実であるかどうか私には分かりません。

>天国と書く必要がないわけです。総ては地上に天国も地獄もあるのだと思いますが、何故キリスト教や念仏ではこの世ではなくしてあの世の彼岸での往生や天国に往くことを願うのでしょうか。わたしにはそのように見えるのです。それともキリスト教徒には天国という概念はこの世意外にはあり得ないとでもいわれるのでしょうか。是非知りたいところです。

私の考えは私自身真実とは思っていません。
是非知りたいところはご自分で探すのが宗教心だと思います。
他人に問うものではありません。

>キリストが磔刑死してそれが生き返ったということを信じていることがどうも判らない。アメリカですから電気椅子でしょうがそうなった人が生き返るはずがないのです。無理に信じるから判らなくなってしまうのだと思います。いくら聖書に書いてあっても納得がいかなければ盲信に頼るしかなくなるわけです。無理に信仰はする必要がないのです。

私も全く同じ考えを持っていました。
バージンメリーが母などは若い頃の私には噴飯物の何ものでもなかった。
しかし古代の世界では、例えば聖徳太子の母は仏が彼女の口の中に入り込んで聖徳太子を懐妊したと今昔物語にあります、それは昔の人は何を意味したのか説明なしに分かったのでしょう。
私には盲信する必要はありませんし無理に信仰する必要はなくそれはキリスト教においても全くというか、それ以上に信じられないものでした。
何故私のニックネームがトム(トーマス)なのか説明をしたと思います。

 
 

2011/06/17 10:45

Commented by Tom さん

To 広転さん
>その答えとしてtomさんはここで、さっそく以下のようにいわれているわけです。
>
>>無の前にあったものを「在るもの」とするのがユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教ですね。
>
>
>私の意見では、そのようには全く考えてはいないということです。
>
>それならばその神の前には何があったのでしょうか。これが「在るもの」で初めだとでもいうのでしょうか。そういっただけではこれは論理の世界では通用しないものだと思います。その論理からもし正当化できるとすれば、tomさんが以前にいっておられた、言いだしっぺの勝ちとうおかしな理論だけですね。

堂々巡りの議論だと思います。
反論のための反論ですね。
私の意見では、そのようには全く考えてはいないということです、と言われるのであればどう考えておられるのか私が指摘すまでもなく論ずるべきではないでしょうか?

言い出しっぺの勝ちとの意味をどのように理解されたのでしょうか?
古代ユダヤはバビロン捕囚の際にゾロアスター教を学んでいます。
ゾロアスター教の考えを彼らはしっかりと受け継いで来たと私は考えます。
旧約やイスラム教は言いだしっぺの考えをしっかりと受け継いでいるのです。
決してあなたが考えるようなおかしな理論だけと言えないのは自明の理です。
私の舌足らずであれば謝辞は私にあります。

 
 

2011/06/17 10:59

Commented by Tom さん

>tomさん、私は猿人とかアインシュタインとか愚か者とか神とかに差異を立てる考えを疑問視しているのです。

具体的な説明がこれには必要かと思います。
無視されませんように。
きっちりとお答えください。

>tomさん自身も「生」の創造という観点からそのヒエラルヒーを転覆させようとされている。

この意味が分かりません。

>しかし私は無理にそうする必要はないのだと考えるのです。なにも逆にしたところで何かが変わるわけではないし実際にはそんなことでは変えることはできない。神が特別にえらい存在でも何かを創造源でもないのです。勿論のこと猿がはじまりではないし、アインシュタインさんが作ったものでもないのです。どうしてそのようにしか考えられないのかが問題なのです。つまり誰かが始まりの「生」を造ったとどうしてもいいたがるのかということです。

よく理解されてないようですが(失礼)聖書は真理を語り科学は心理を追求するとの共通点を私は論じているのをご存知でしょうか?

聖書の創世記は科学者が如何にこの世を作ったかを論理的に説明しようがそれが如何なる真実であろうが、聖書ではそれは神の仕業だと言っているのです。
この理解をされておられるのかどうか上記の論で全く不明であろうと私には思われます。
私にはこの世の誕生の真実は分かりません。
単に旧約では天地創造がどのように書かれ、新約ではどのようにかかれてあると私は言及し科学者の中でも天才的な考えを持っている人は神をどのように考えているかを述べそれについての私の感想を書いたのです。

それを私があたかも真実であると主張していると考えるのであれば過ちは私にはありません。
それはそう受け取る人の過ちです。
どうぞ悪しからず。

 
 

2011/06/17 11:08

Commented by Tom さん

>tomさんのいわれているキリスト教の救済ですが、やはり問題は神が人間を救うという誤った救済論にある。そうではなくて人間がキリスト教なりの神を救わないといけないのです。

何度も申しておりますが公典さんは私の若くて幼い考えと全く同じものです。
このような考えが深く物事を考える初めだったと私の場合ですが。

>tomさんがご指摘の通り余りにもイエスとか神は人間を馬鹿にしている。

それはあなたの言葉です。
今まで私の書いたものをお読みになりなさい。
神は人間を馬鹿にしているとは決して書く筈は私にはありません。

 
 

2011/06/17 11:35

Commented by Tom さん

>ここは短い文章ですが、tomさんの信仰の告白の箇所なのでしょうか?・・・

信仰の告白は聖書についての理解です。
此処は私の科学の理解です。

>わたしは前から気になっていましたが、この「先に言った者勝ち」というのは誰がいったのか?とうことです。聖書に書かれてある神の言葉ということなのでしょうか、そうすると「先に言った者」のその言葉を聞いた者がいるとうことになる。いわゆる証言者が誰かいるのですね。また先に言った者が一番最初であるという年代記はいつ頃なのか?それが一番最初であるという証拠は何かあるのかという疑問がでてくる。じつはこの疑問は私は全然これまで考えてなどいなかったものなのですが、tomさんに一歩従ってつまり随他意的にいえばどうなるのか?と考えた次第での疑問なわけです。

なるほど、そういう考えもあるのでしょうね。

>私自身はtomさんが書かれている、上掲文の最後の6行での矛盾の驚愕のご指摘に興味が惹かれます。

tomさんのこの疑問は当然ですが、人と神と自然の関係を同等に捉えてそれらの間に創造者と被造物との規定を作らない思想ならばすっきりと疑問が解決すると私は思っています。

私と同じ考えと思います。
この世に神は存在しないがあたかも存在するかのように心のなかに神の存在を持つとが私の考えですから。
結局は絶対神が存在すると同じ事なのですが科学者が言う神の存在の証明は出来ないとの真理が成立することになります。
何度も申しておりますが、神と人間の関係は此処のもので他人に及ぶものでなければ規定になるものでもありません。
公典さんの大きな誤解はそうした規定をつくろうとするクリスチャンを見てイエスのみ心に無いものをキリスト教的だとしていることなのですね。

その指摘の為に上げたのが「ニーバーの祈り」のエントリーなのです。
神のみ心はこの世の政治や戦争とは関わりのないものです。
そうした世の中のものとは全く関係を持たない霊の世界が神の世界で神が人間を馬鹿にしているとかの考えは聖書には全くないものなんですね。

神のお導きと神の愛が公典さんに恵みとして与えられますようにお祈り致します。

 
 

2012/01/13 17:04

Commented by Tom さん

佐藤優さんのサイトに私の考えに似たのがあります。

http://webheibon.jp/blog/satomasaru/2008/03/6.html

●救済宗教としてのキリスト教

キリスト教は究極的なところで人間的なるものを信じません。だから、アンチ・ヒューマニズムなのです。また、キリスト教には知性に対して根源的な懐疑があります。いくら知的に積み重ねられた議論でも、最終的な救いにつながるかどうかはわからないからです。あるいは、知的な訓練を積んでいなくとも、ある瞬間に何らかの偶然で救われてしまう人がいるかもしれないと考えます。従って、キリスト教は仏教などと比べると、知性に対する懐疑心がきわめて強い、そういう性格を持った宗教なのです。
 では、「救済」、「救われる」とはどういうことなのでしょうか。これは一種のトートロジー(同語反復)になりますが、キリスト教の表象からすると、終わりの日に永遠の命が得られる、という考え方です。われわれのイメージからすると、人間の存在が永続すること、個別性をもって「在る」が続いていくこと。それが「救い」なのです。そこにおいては、歴史もすべて終焉します。仏教では対照的に、これは輪廻転生の世界から永遠に抜け出せないような、迷いの極めつきの状態です。
 ただし、現在は救いに向けた中間時なので、最後の救いの瞬間になるまで、われわれには具体的な像はわからないのです。そうすると、最後の瞬間に火に焼かれず、保全されるほうのリストに自分が選ばれているという確信を持つことこそが「救い」です。キリスト教の内在的論理だと、そうなります。
 

 
 

2012/01/13 17:04

Commented by Tom さん

>これを受け入れるかどうかは、究極的には各人の趣味の問題です。キリスト教のように有の論理を取るか、仏教のように無の論理もしくは空の論理を取るかという立場設定の問題なのです。つまり、どちらが正しいかを争っても意味はありません。ただし、日本を含めた仏教的な文化圏は後者を取りますが、それ以外の世界では前者を取ることになります。つまり現在の世界では、自己が永続することに意味を見いだすのが、圧倒的多数派なのです。
 私たち日本人は、他の世界の人たちと、地の刷り込みが逆なのです。だから、日本の常識はだいたい世界の非常識になる。これは多数派/少数派の問題です。ただ私の場合は、地の刷り込みが一般的な日本人とは逆だから、日本では少数派ですが、国際的なスタンダードでは、多数派の発想になるわけです。ただ私も日本人だから、日本の発想のあり方がヨーロッパ人やアメリカ人よりはよく分かる。そういう重層構造です。

 
 

2012/01/13 17:17

Commented by Tom さん

>イエスとか神は人間を馬鹿にしている。この人間蔑視の世界観が人間を不幸にしているともいえるのです。これも多くの人がいっているのかもしれませんが、それはあまりにも重大なキリスト教の悪罪だからでしょう。

何故多くの人がキリスト教の罪悪とするのか聖書にその説明があります。
イエスに信心のある人間をイエスは「友と呼んだ」としてあります。

ヨハネの福音書
15:10もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。 15:11わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
15:12わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 15:13人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。 15:14あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15:15わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。 15:16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。 15:17これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。
15:18もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。 15:19もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

 
 

2012/01/13 18:18

Commented by eigo さん

To Tom さま & 広転さま

割り込み失礼します。

「ビジネスアイの時事英語」ブログの Tom です(紛らわしいですが、ここのオーナーとは別人です)。私はクリスチャン(プロテスタント)です。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は人間に対して、「私は神である。私を信じよ。崇拝せよ。そうすれば永遠の救いが得られる」と語りかけてきます。人間中心ではなく、神が主権者(sovereign)なのです。

人間には、神の存在を感じ、この神の声を聞くことができるひと(聖書によれば「招かれているひと」)と、できないひとがいて、前者にとっては神に従うほかなく、後者にとってはキリスト教など一神教は傲慢だとなるのだと思います。

 
 
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